2009年7月24日金曜日

ブログ変更のお知らせ

このたび当ブログを開いた時、永遠とウインドウが開き続けるといったトラブルにあった方が何人かいたため、当ブログは以下URLに引っ越しします。

自己満なブログですが、今後もどうかよろしくお願いします。


世界30ヶ国の旅 最新版




2009年7月16日木曜日

7月15日 ギリシャ(8):アテネ~パトラ 「野宿暮らし」

パトラ駅
「起床」
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朝9時頃起き
たら、まだ機能の日本人の人が部屋にいた。私はホテルに頼むのではなく、自分で洗濯をしているのだが、彼も自分で洗濯をしているようで、ちょうどベランダで洗濯物を干しているところだった。

今日は私が昨日行っていたパルテノン神殿などを見に行くのだという。今から出発するようだ。彼ともこれでお別れだ。

私は、最近移動してばかりで少し疲れていたのでいたし、アテネで特に行くところもなかったので、11時のチェックアウトの時間までぐったりとしていた。

11時近くになり、私は身支度をしてホテルを出発した。

「再びアテネ・ラリッサ駅へ」
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私は、イタリア・バリへ行くフェリーが出発するパトラという街に行くため、再びアテネの中心駅・ラリッサ駅へと向かった。昨日、この駅の駅員には本当に懲りたが、バスより電車の方が好きなので電車でいくことにする。

駅に行くと、朝だからなのか昨日ほど混雑していない。チケットはすぐに購入することができた。アテネからパトラまで12ユーロ(1560円)。

出発まであと30分あったので、私は昼食を探しに駅の近くを歩いた。少し歩いたところにパン屋があったので入る。ギリシャのパンやは、パンだけでなくケーキなどもよく売っている。パンの量り売りもあり、日本とは販売方法が異なる。

女性店員が二人いたが、私が
「これはいくら?」
と聞くとどうやら英語がわからないようで、もう一人の方にバトンタッチした。ギリシャの人々はあまり英語が通じない。英語圏ではないのだから当然といえば当然である。

私は、1.5ユーロ(195円)でチーズと海苔のようなものがサンドされているパイを買った。電車に乗っているときに食べよう。

「アテネ出発」
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電車は、駅の2番線に定刻の12時より10分くらい遅れて到着。ギリシャではこれくらいの遅れは当たり前なのだろうか。

電車が合っているかどうか不安だったので、私は乗客にこの電車がパトラ行きかどうか尋ねた。乗客はこの電車で良いという。私は安心して電車の席に座った。

アテネからパトラまで電車で4時間かかる。それまで私は電車の窓を覗きながら、パソコンで日記を書くことにした。車窓からの風景は、日本と違ってあまり多くの緑がない地域を走る。このあたりは降水量が少ないからこのような風景なのだろうか。遠くの方には海が見え、広々とした景色はとても開放感がある。

「バスに乗り換え?」
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電車は1時間半ほどして乗り換え駅「Kiato」にやってきた。この乗り換え駅の周辺にはなにもない地方だ。広い土地に10メートル置きに家が立ち並ぶだけだった。私はそこから電車に乗り換えるのだと思っていた。しかし駅員に聞くと、
「パトラはそこからバスだよ。」
と言う。バスが二台とまり、乗客を乗せる。不安になったので、
「電車でパトラに行くチケットを買ったのだけど、このバスでいいのですか?」
と乗客に聞いてみると、これで良いのだという。何かあったので電車が通らなくなったのだろう。私は電車が良かったのだが、しぶしぶバスに乗った。

バスは高速道路を猛スピードで走る。二車線だというのに、他の車をわきによけ、猛スピードで走るのだ。この高速道路には速度制限があるのだろうか。バスはガタガタ揺れる。日本と違って、無駄に道路の整備がされていないので、バスはとても揺れるのだ。だから私は電車の方が好きだ。

30分ほど走り、バスは駅に停まった。どうやらここから電車に乗ってパトラに向かえということらしい。なんだかよくわからないが、再び電車に乗ることができて私は嬉しかった。

「パトラへ」
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その駅からパトラへ向かう列車の風景はまた格別だった。パトラまではずっと海岸沿いを走るので景色がまた良い。反対側の車窓からは、ギリシャののどかな田園風景が広がり、私はいくら眺めても飽きなかった。これぞ「世界の車窓から」である。

アテネから約4時間、電車はパトラに到着。パトラの駅は、2車線しかないとても簡素な駅だった。私は駅を出て、街を眺めた。

パトラは、港街として栄えているようだが、あまり人通りは多くない。町の通りを歩いても、あまり店は開いていなかった。アテネ程ではないが、閑散とした街には数人黒人がサングラスの露天商を営んでいる。街にはあちこりスプレーの落書きがされているので、あまり治安が良いようには見えなかった。

私はこのパトラでキャンプをしようと思っていた。そのためには街の中心を離れてた方が良いと思って、街を突っ切った。

通りを一直線に進むと、大きな階段がある。何百段あるのだろうという階段だ。この階段を登れば、街の中心の雰囲気から離れることができると思い、私は重いザックをかついで上に登った。

「大きな教会」
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階段を昇ると、閑散とした住宅街が広がっている。少し進むと、右手に大きな教会が見えた。やはりヨーロッパには、大抵のところにこうした大きな教会があるのだと思い、行ってみることにした。

教会の入口に行くと、門が閉まっている。私は長い時間ザックをしょっていたので疲れていた。そこで門の前にある階段に腰を下ろし、しばらくの間ボーっとしていた。

すると、目の前の家から黒ずくめの神父さんのような方が現れた。どうやら目の前の家は神父さんの家のようだ。

そして神父さんの家から別の男がやってきて教会の扉を開けた。私は、その男の人に、
「このあたりにキャンプするのに良い場所はないか?」
と聞いた。男の人は、
「このあたりではキャンプは禁止されているよ。」
と言う。ギリシャにはこのような場所が多い。何故そんなに禁止するのだろうか。

私はキャンプをするのを諦めた。しかし、私は懐事情がこのままだと厳しいように感じたので、宿代を節約したかった。

よし、野宿しよう。そう決めた。
パスタ自炊中
「野宿」
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私は野宿する場所を駅にした。駅は24時間人がいるし、明るいので安全だと思ったからだ。そして駅に向かい、ベンチに座って前の日の日記の書き残しを書いていた。

お腹が減ってきた。夕食の時間である。しかし、先ほどこのあたりを歩いた時、あまり手頃なレストランがなかった。そして、私は自分がキャンプ用のコンロと鍋を持っていることを思い出し、自炊をすることにした。

街を歩くと、スーパーマーケットがあった。そこでパスタ(400g:1.1ユーロ:143円)、1つ0.40ユーロ(52円)のトマトソースを買った。

あまり人がいるところで飯を作るも難なので、港が近い公園に行った。幸い、この辺りは日がながいので、夕食の時間になってもまだ明るく、安心して野外で自炊ができた。辺りには誰もいない。ここならできる。

ザックからコンロと鍋を出し、スーパーで0.30ユーロ(42円)で買った水を入れ、湯を沸かす。そしてパスタを約100g入れ、しばらく待つ。正直、こんな経験は初めてである。なので、誰かここに人が来て、自炊している姿を見られても恥ずかしいので、早くパスタを食べて退散したかった。こんなに早くパスタができて欲しいと思ったのは初めてである。

パスタを味見し、ちょうど良く柔らかくなったところで湯を別の鍋に出した。そしてその鍋にトマトソースを和え、トマトパスタの完成だ。

その時、おばあさん一人が公園にやってきて、少し遠いベンチに腰を降ろした。やはり少し不審な目でチロチロ見てくる。まぁ公園でパスタ作るやつなんて滅多にいないだろうから当然である。

私は急いでパスタを食べた。パスタは簡素なつくりながらなかなかおいしい。おばあさんもいるので、私は鍋を洗ってその場を去った。

「駅泊」
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私は夕食を済ませたあと、本を読んで時間を潰した。そして夜10時頃になって寝ようとした。

中のベンチには手すりが付いていて、横になることができなかった。しかし、中の方が暗くて安全そうだ。私は中でしばらく寝ようと試みた。

でもやはり眠ることができない。横になることもできないし、駅の人は常に窓口にいるわけではないので、少し不安だったからだ。

そこで私は、手すりがなく、横になることができる外のベンチに行き、横になった。

しかし、外にはこのあたりの若者であろう人々が数人しゃべっている。だが他にも人はいたし、大丈夫だと思い、貴重品を抱え込んでし寝ようとした。回りにも同じようなバックパッカ―が寝ていたのでより安心できた。

寝る途中、なんで私はこんなことをしているのだろうと思った時があった。公園で飯をつくり、駅で寝る。なんだか少し虚しくなった。

しかし私が十分旅を楽しむことができる時間があるのは、今しかないのだ。これから社会人になり、あまり旅ができないことを後悔したくなかった。仕事を一生懸命やりたかった。だから資金がなくなり、帰国しなければならない事態をどうしても避けたかったのだ。旅を成功させるための、自分への試練だと思って自分で結論付け、私は寝た。

7月14日 ギリシャ(7):アテネ 「パルテノン神殿はどこ?」

パルテノン神殿
「初めてのテント?」
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午前9時頃、私は起床した。昨日私がこのユースホステルに来た時に寝ていた人々はまだ寝ている。いったい彼らはいつまで寝ているのだろうか。

朝起きて、私の周りに置いておいたiPodがないことに気づいた。どこへ行ったのか。私はドミトリーの高い二段ベットの上に寝ていたし、私のそばにiPodを置いておいたはずなので盗まれる可能性は低いはずである。

よく回りを見ると、ベット横に下へ隙間があった。もしかしてこの下にiPodが落ちたのではないか。

そう思い、まだ部屋で2人が寝ていて
、薄暗い部屋でごそごそとザックから懐中電灯を取り出した。そしてベットの横の隙間が通じるベットの下に明かりを灯した。すると、やはり私のiPodが落ちていたのだ。

しかし、私の二段ベットの下にはまだ人が寝ている。私はその人を起こすか、その人を起こさないようにそっとiPodをベットの下から取り出さなければならない。

私はその人を起こすのは悪いと思ったので、起こさないようにそっと取り出す方法を選んだ。しかし、どのようにベットの下から取り出せば良いのだろうか。私は自分の持つテントの骨を組み立てれば長い棒が出来上がることを思い出し、このテントの骨を使ってiPodをとることにした。

すぐさま組立て、長い棒を作る。しかし、皆が寝ている部屋でこんな長い棒を持つとはいかにも不自然で怪しい。寝ている皆に気づかれないようにしなかれば!細心の注意を払ってベットの下にテントの棒を入れた。

テントの棒が地面に当たり、カチカチ音を立てる。これでは部屋の皆が起きてしまう。棒がもうすこしでiPodに届きそうだ!届いた!

そして私は音を立てないようにそっとiPodに棒を当て、ベットの下から取り出した。幸い、部屋の皆が起きた様子はない。私はほっとして自分のiPodを手にした。ベットの上にiPodを置いて寝るのはあまり良くないようだ。

この時、私は初めてテントの道具をこの旅行で使ったのである。次に使う機会は果たしてあるだろうか。

アテネ・インターナショナル・ユースホステル
開き扉式のエレベーター
「ホテルチェンジ」
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私は、この「Hotel Lozzani」があまり好きではなかった。入口はラブホテルみたいだし、気軽に座れるコミュニティー・スペースもない。あるのバーだけ。しかも夜中なのに廊下がうるさい。そこで、私は近くにある同じくユースホステルの「Athens International Youth Hostel」にホテルを変えることにした。

「Hotel Lozzani」のチェックアウトを済ませ、私は新たなユースホステルに向かう。10分程歩いて到着した。

このユースホステルは、一番下の階に雰囲気の良いコミュニティースペースがあり、インターネットも使うことができる。レセプションのおばさんはとても感じの良い人だった。値段は「Hotel Lozzani」と同じ17ユーロ。私はすぐにこのホステルのドミトリー(共同部屋)に泊まることにした。

レセプションで受付を済ませると、レセプションの人は、
「そこのエレベーター乗って行きな。」
と言ってくる。え?どこにエレベーターがあるのだろうか。見るとどこにでもある開き扉があるだけである。受付のおばちゃんに聞くと、どうやらこの開き扉がエレベーターのようだ。

開き扉のエレベーターなど聞いたことがない。ボタンを押し、扉を手動で開くと、狭いエレベーターがそこにあった。ボタンを押すと、目の前の壁がどんどん下へ行き、エレベーターは上へ昇っていく。こんなエレベーターは初めてだ。昇と、扉はもちろん自動
で開かない。手動で開けるしかないのだ。私は扉を押し、その開き扉を開けて3階に辿りついた。なんだか不思議な感じだ。

部屋に入ると、このドミトリーにはまだ人は入っていないようで、広々とした空間が広がっていた。私はこの、ドミトリーを一人占めできる瞬間が大好きである。

私は大きなザックを置き、私のベットの位置を確保して、すぐにアテネ市内へ飛び出した。早くギリシャの古代遺跡を見てみたかったのだ。

「アテネ市内」
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アテネは前にも述べたとおり、あまり治安が良くないようだが、昼間は街が明るく灯され、昨日の薄暗くて治安が悪い感じとは一転していた。しかし、街自体はあまり奇麗ではないように思う。

ホテルの近くから少しでると、Omonia(オモニア)広場に出る。どうやら、このあたりがアテネの中心街のようだった。私は朝食が取れる場所がないか探しまわった。

しかし、都会の中心部なだけあって、そのあたりで売られているものは高い。どの店も同じような値段である。街を見ると、イスタンブールと同じように露天商が並んでいる。露天商を見ると、周りの店より値段が安いようだ。私は露天商で0.80ユーロ(104円)の菓子パンを購入した。

そしてオモニア広場からパルテノン神殿があるアクロポリスの丘に向かうアティナス通りを歩いている途中、市場があった。私は市場が好きだ。国によって売られているものも様々だし、商売人もまた違う。それを目にするのが私は好きだ。

市場に入ると、小さなスーパーマーケットがあった。そこではストロベリーヨーグルトが0.58ユーロで売られていたので、菓子パンだけでは朝食が足りなかった私はヨーグルトを購入し、すぐに食べた。とても甘くておいしい。

マーケットを歩くと、果物がたくさん売られている。商売人は声を出して威勢が良い。市場はやはり活気に満ちている。イスタンブールの市場と違うのが、トルコ人よりも客に声を掛けてこないところだ。トルコ人はとても良く声をかけ、強引に買わせようとするが、ギリシャ人はそんなことない。そういう意味で、ギリシャ人はジェントルだ。

フルーツはとても安く、スーパーマーケットよりさらに安い。ブラックチェリーがなんと1kg1ユーロ(130円)で売られているのだ。1kgといったら一人じゃとても食べ切れないくらいの量である。こんなにブラックチェリーが安いのはトルコでも見たことがない。トルコより安いものがギリシャで発見できるとは思わなかった。

「パルテノン神殿はどこ?」
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アティナス通りを再び歩き、Monastiraki駅に到着。ここまでくると、パルテノン神殿のアクロポリスの丘は目の前だ。しかし、丘が高いのでこの位置からはパルテノン神殿は見えない。

そして私は、目の前にあるアクロポリスの丘を目指す。途中、さっそく左手に小さな遺跡が現れる。「アドリアヌスの図書館」だ。しかし、もはや図書館の面影はない。入場して中に入ることができたが、私は外から眺めて鑑賞した。大理石でできた柱の遺跡がたくさんある。まさにギリシャという感じがした。

私は人伝いにパルテノン神殿のあるアクロポリスの丘への入口を探し、先ほどの図書館から10分ほどで辿り着いた。

入口でチケットを購入する。チケット売り場の人が、
「あなたは学生ですか?」
と聞いてくる。どうやら学割が効くようだ。私は国際学生証を受付に見せると、彼女はなんだこれを言わんばかりにカードを見る。
「あなたは大学生?国は?」
質問に答えると、チケットを学割料金で売ってくれる。どうやら、この国際学生証の知名度はあまり高くないようだ。しかし使えることに越したことはない。

私は入口からパルテノン神殿のある方角へ向かう。パルテノン神殿はまだ見えない。早く見てみたいという一心で足を運ぶ。

そして丘の周りを半分一周すると、ようやくパルテノン神殿に行ける坂道が現れた。その周りには、「ディオニソス劇場」や、今も実際に使われている「イロド・アティコス音楽堂」がある。あまり見たことのない遺跡が建ち並び、胸が躍る。

パルテノン神殿へ向かう道は混んでおり、途中で列が止まった。近くにいたおばさんに聞くと、
「私たちもなぜかわからないのよ。」
と言う。多分人が混雑しているので入場制限でもしでいるのだろう。今日は平日だというのに、こんなに混雑しているとは思わなかった。

しばらく経つと、列は再び動き出した。まだパルテノン神殿は丘の上にあり、見ることができない。はやく見てみたいという気持ちが足を急がせる。そして、入口の門(プロピレア)をくぐると、ついに私の前にパルテノン神殿は現れた。

パルテノン神殿はとても大きく、大昔の人がこれを造ろうとすうるなら、ものすごい
労力を要したのだろう。色は真白いものだと思っていたが、少し黄色みがかかった色をしている。今は神殿を修復しているようで中には入れない。柵を越えて誰かが中に入らないように、神殿の前には係員がメガホンを持って立っている。
「そこの人たち、いますぐその場所を離れないさい。」
頻繁に係員が叫ぶ。結構厳しいようだ。

神殿は高い丘に聳え建つので、ここから見えるアテネ市内の景色はとても良い。無秩序に立ち並ぶ多くの建物や、渋滞する車はここがギリシャの首都だということを改めて認識させられる。

パルテノン神殿を見終え、アクロポリスの丘を降りると、私は少し日陰で休憩してから公園を歩き回った。

古代アゴラ・アタロスの柱廊博物館
「古代アゴラ散策」
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「Dancing Theater」という看板があったので、その矢印の方向へ向うが、なかなかそれらしきものが見当たらない。15分程歩いて、その入口を見つけたが、フェンスで閉められていた。どうやら今日はやっていないようだ。残念である。

私はそこから「古代アゴラ」という場所に行った。地球の歩き方「ヨーロッパ」によると、アゴラは「市場」を意味し、古代では政治家や哲学者、そして芸術家が議論を交わす場所としても使われていたようだ。

ここには「アタロスの柱廊博物館」、「テセイオン神殿」などがある。「アタロスの柱廊博物館」は遺跡の中で唯一完全に復元されたもので、その柱の連なる建物はとても美しかった。

「再び市場へ」
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古代アゴラに訪れた後、午後1時30分頃だったので、お昼を食べに再び市場へ向かった。

古代アゴラから市場に向かう途中、路地にたくさんの露天商が並んでいた。私はロードス島にいた時、防水機能が付いているはずの時計をつけて海に入ったら、水が入って時計が壊れてしまったので、腕時計を持っていなかった。なので、露天商の売る腕時計を見て回った。

気に入ったものがあったので、店の人に聞くと25ユーロ(3250円)だという。私が、
「15ユーロ(1950円)だ。」
と言うと、
「20ユーロ(2600円)でどうだ。」
と言う。私は20ユーロなら買わないと言うと、
「じゃあ18ユーロ(2340円)にするよ。」
と言ってきたので、私はそこで妥協し、18ユーロで腕時計を購入した。露天商での買い物は、この駆け引きが楽しい。

市場に着き、私は果物売り場に行った。先ほどブラックチェリーがとても安かったからだ。私は500g0.5ユーロ(65円)で購入した。早速広場に座ってチェリーを食べる。ここで売られているチェリーは、よく見ると4分の1くらいが腐っているように見えたので取り除かなければならない。日本ではこのチェリー、絶対に売れないだろう。

「肉市場へ」
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私は昼食を済ませたあと、果物市場とは別の市場に向かってみる。すると、そこは肉市場だった。

なんと、そこには子羊が真っ二つにされたものがたくさん並んでいる。こんなにあからさまに真っ二つにしたものを皆欲しがるのだろうか。しかも、その市場は匂いが少し異様であった。肉が売られているのにも関わらず、あまり清潔感がなかった。

ここで、トルコで会ったアメリカ人デイビットが日本について話していたことを思い出した。
「日本はとてもきれいな国なんだよね。地面に座ってもまったく問題無いと聞いたことがあるよ。」
この話を聞き、さすがに地面に座るのは行儀が良くないと言っておいたが、日本はとても清潔感のある国として思われているようだ。

まだ数か国しか行っていない私が言うのも難だが、私もその意見に同意だ。このアテネの市場等を見ても、日本と比べるとあまり清潔感がないように思う。

そこで私は、日本のように清潔感のある国だからこそ、「刺身」や「馬刺」などの生魚、生肉を食べる文化が成り立つのではないかと思った。外国人は、寿司は好きと言っても刺身を食べられない人は多い。それはこのように、生を食べることを前提としていない、あまり清潔感のある環境がないから、外国人は生物(なまもの)に拒絶反応を出すのではないか。

食に対してもっと清潔なイメージがあれば、世界にももっと生魚、生肉が受け入れられるようになるだろう。

「フェリーのチケット」
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私は市場を出て、再びアクロポリスの丘の周辺を歩いた。Monastiraki駅周辺には、たくさんのお土産屋がある。私はそこの店を覗いていると、フェリーチケット売り場を発見した。

明日フェリーでギリシャのパトラからイタリアのバリへ行こうと思っていたので、明日のフェリーを聞いてみた。

「明日のフェリーは50ユーロくらいするよ。明後日だったら31.50ユーロで行けるよ。」
その差約20ユーロ(2600円)。今日出発したかったが、これだったらもう一泊した方が割安だと思ったので、私は明後日のフェリーチケットを購入した。

そして私は再び店が連なる通りを歩くと、大きな大聖堂が現れた。ミトロポレオス大聖堂だ。見たところ、改修中のようである。入口には、「きちんとした服装で入館して下さい。」と書かれている。サンダルを履いている私はきちんとした格好とは言い難いが、何か言われるまで入ってみることにした。

中に入ると、ギリシャ正教らしく、中にはたくさんの聖人のフレスコ画が並ぶ。内装はとても豪華だ。私の教会のイメージはとてもシンプルなものだが、ギリシャの教会はフレスコ画がたくさん描かれていたり、たくさんの装飾がされていたりしている。中は小さな光で灯されているだけなので薄暗く、ここが神聖な場所だということを演じているようだ。

何も言われることなく、私は外に出ることができた。教会の係員の人と目が合ったが、何も言われなかったのでサンダルでもどうやら良いようである。

「ギリシャ国会議事堂」
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次に私が向かったのが、ギリシャの国会議事堂である。海外の国会議事堂とはどんなものなのか見るために訪れた。ギリシャの国会議事堂は白を基調とし、とてもおしゃれな建物だ。このスポットは意外にも人気なのか、たくさんの観光客で賑わっている。

国会議事堂の隣には、国立庭園が広がっている。国立庭園は、芝生や植物がしっかりと整備されており、さすが国立庭園といったところである。街中から一気に大自然の中に入ったので、気持ちよっくなって一度そこで休憩をした。

国立庭園から少し歩くと、ゼウス神殿が現れる。ゼウス神殿は、地図から見るとパルテノン神殿より大きいように見えるが、残っているのはわずかな柱しかない。しかし、その柱の大きさが、神殿が大きかったことを物語り、迫力があった。

「地下鉄爆弾テロ?」
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ゼウス神殿の近くにある「Acropolis」駅から、地下鉄で「Larissa」駅へと向かう。歩いて30分くらいで行けるだろうが、私はアテネの地下鉄に一度乗ってみたかったのだ。

私が乗ったアテネの地下鉄は、最近できたのだろうか、とても新しかった。きっとアテネオリンピックの時に新しく整備したのだろう。地下鉄はすぐにやってきて、私は乗車した。結構な人が乗っている。さすが首都である。

しかし、次の駅でたくさんの人がいきなり降りていった。そして、ここで乗ってきた乗客が私に、
「この電車はここで折り返しだよ。」
と教えてくれた。私は最初、ただ単にこの駅が終点なだけだと思っていたが、どうやらそうではないらしい。

私の行きたい方角へのプラットホームはなんと閉鎖されているのだ。係員に事情を聞くと、
「爆弾だよ。omonia駅(次の駅)に爆弾が設置された恐れがあるんだ。」
なんと、次の駅で爆弾の設置予告があったというのだ。こんなことは初めてである。わたしはしぶしぶ駅を出た。せっかく地下鉄を乗って楽をしようと思ったのに、一駅分しか乗っていないのが悲しかった。アテネの地下鉄は一度買うと、1時間半は乗り放題のようだが、私は駅がすぐ近くなので歩いていくことにした。

「駅の日本人」
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「Larissa」駅はアテネの主要駅。周辺各国や地方都市から列車がやってくる。私は、イタリアに渡る船が出るパトラへ電車で行こうかバスで行こうか選ぶために、この駅にやってきたのだ。

駅に行くと、ギリシャの首都の割には人の数はいない。バスにはたくさんの人が乗っていたにも関わらずだ。あまり電車が一般的な交通手段ではないのだろうか。

駅をうろちょろしていると、
「こんにちは。」
と日本語でいきなり話しかけられた。彼は私が
地球の歩き方「ヨーロッパ」を持っていたので日本人だとわかったそうだ。彼は今からメテオラという街に行くために切符を購入しているのだという。

私はメテオラという場所をしらなかった。知っているとすればメテオラといえばLinkin Parkのアルバムの名前だということだけだ。

彼にメテオラについて聞くと、ポストカードを見せてくれた。丸くて高く聳え立つ岩の近くに家が立ち並ぶ。とても面白い風景で、世界遺産だと言っていた。

彼はいかにもバックパッカ―というよりヒッピーのような格好をしている。ひげを伸ばしっぱなしである。私も最初、ひげを伸ばしっぱなしにしてみようとしたが、一週間で諦めた。私には似合わなかったからだ。

私はチケットを調べに来たので、彼とはすぐに別れた。

駅の案内所でパトラへの値段を聞こうとした。しかし、そこの案内人はここではなく、違うところへ行けと言う。そしてその案内所に行ったらまた違う場所へ行けという。そして、次の場所まで行ったら待ち時間がおよそ30分程かかると言うのだ。私は根気よく待ってると、一人の日本人のようなアジア人を見つけた。手に持っているのは「BUNKYODO(文教堂)」と書かれているカバーをした本だ。私は間違いなく日本人だと思い、声をかけた。

彼は社会人で、運輸関係の仕事をしているのだとか。やっと休みが取れたと言ってたのでギリシャを旅行しているのだと言う。私と同じ、サントリーニ島にも行き、そこで四駆を乗りまわしていたそうだ。次にミコノス島にも行くのだと言う。
「サントリーニ島は良かった。でも一人じゃちょっと寂しかったよね。あの場所は。」
私も同感だ。サントリーニ島はとてもおしゃれな街並みだが、そこにあるおしゃれなレストランに入るには、一人では少しさみしい場所である。周りにカップルが多いのもその原因だ。
「誰かと一緒に来ればよかったよ。」
ミコノス島に行くと、もっとさらにそう思うだろう。サントリーニ島やミコノス島をフルに楽しみたいのならば誰かと一緒に行った方がよさそうである。

「ギリシャの鉄道」
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30分経ち、ようやく私の順番がやってきた。そして窓口に行って、値段を聞こうとすると、
「あっちの窓口に行ってください。」
え?さすがの私も頭に血が上った。
「あっちの人がこっちこいって行ったんだよ。」
「あっちに行ってください。」
「30分も待ったんだ。パトラまで値段だけ教えてくれるだけじゃないか。」
「あっちに行ってください。」
いくら言っても教えてくれない。あっちの窓口だと言うだけである。私はもうさすがに面倒になり、今日出発するわけではないので諦めた。にしても駅員の態度にはあまり良い気分になれない。ギリシャの駅員は皆この駅の駅員のような人々なのだろうか。

「国立考古学博物館」
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先ほど会った日本人の人が、国立考古学博物館が19時半までだと教えてくれた。まだ18時を過ぎたところ。私は面白そうだと思い、向かってみることにした。

駅から15分程歩き、国立考古学博物館に到着した。国立考古学博物館の外見は、パルテノン神殿と同じような形をした柱が並び、古代ギリシャの建物を完全に復元したような建物だ。

入館料は学割で半額の3ユーロ(390円)。中に入ると、ギリシャ全土から集められた貴重なコレクションが数多く並ぶ。カメラの撮影をしても良いようなので、気入った作品を数枚写真に収めた。

この博物館はとても大きく奇麗で素晴らしいものだったが、館員の態度は日本では考えられないものだった。多くの館員が世間話をしているし、静かな館内で大きな声をあげて携帯電話で話しをしている館員もいる。これも日本との文化の違いなのだろうか。

1時間ほどして、私は国立考古学博物館を後にした。

「ユースホステルの日本人」
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ユースホステルのドミトリーに帰り、部屋でシャワー等を浴びていると、独りのアジア人がやってきた。最初日本人かよくわからなかったので、英語で出身国はどこかと聞くと、
「日本人だよ。」
と言ってくる。彼は千葉に住んでいる元会社員。転職するために会社を辞めたが、その合間を利用して2か月ほどヨーロッパを旅行するのだという。イタリアに2週間旅行したことがあると言っていたので、次の国がイタリアである私はさっそく彼に話を聞いた。

「シチリア島が最高だったよ。」
シチリア島といえば、他の日本人も勧めてくれた場所である。私は見たことがないのだが、映画「ゴット・ファーザー」の舞台となった場所で、とてもきれいで食べ物もおいしいそうだ。シチリア島へは、なんと次に行くバリから直通の列車が出ているという。私はバリの次はシチリアに行こうと決めた。

旅のことを色々話していると、やっぱり私の資金でヨーロッパを旅行するのは相当厳しそうである。これからは交通費を重点に置いて、あまり他ではお金を使うことを辞めようと考えた。

最初、自転車を購入してヨーロッパを回るのも手だと思ったが、あまり時間もないし、この思いザックをしょって行くには限界があった。なので移動はバスか電車を利用することにした。

すると、削れるところは食費と宿泊費である。私はテントを多用しようと考えたが、ギリシャはキャンプ禁止の場所が多い。大きな駅や港ならばそこで寝ることができるので、そこで野宿することにしよう。ホテルは野宿が不可能な場合に入ることにする。

このヨーロッパはやはり高い。旅行を成功させるためには、やむを得ないことなのだ。

7月13日 ギリシャ(6):ミコノス島~アテネ 「アテネへ」

アテネへ向かうフェリー

「起床」
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ホテルのベットはとてもふかふかで寝心地がよかった。ミコノス島は風が強いせいか、夜はとても涼しくて気持ちが良い。

ミコノス島には「パラダイス・ビーチ」というビーチがある。このビーチは、かの有名なヌーディスト・ビーチである。

このビーチに正直ちょっと興味はあったが、ミコノスタウンから少し離れた場所に存在するため行きにくいのだ。アテネへ出る安い(20.90ユーロ:2717円)フェリーは昼の13時15分出発。夜の便もあるのだが、料金が50ユーロ程していしまう。

パラダイス・ビーチへ行くために、このミコノス島にもう一泊するのも難なので、わたしはビーチを諦めて今日の昼に出るフェリーに乗りアテネに向かうことにした。

「ミコノスタウンへ」
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まだフェリーのチケットを購入していなかったので、私はチケットを購入するためにミコノスタウンへ向かうことにした。普通フェリー乗り場にチケット売り場があるものだが、この島のフェリー乗り場にはチケット売り場はないと宿の奥さんが教えてくれた。

チケット売り場に行くと、小さなフェリー売り場に10人程が二列で並んでいる。私の前にいた男の人が、なぜか私を列の前にしてくれた。なんだか妙な優しさである。

フェリーは20.90ユーロ(2717円)。出発時刻は13時15分だ。私は宿の奥さんに港に送ってもらう約束をしていたので宿に戻った。

「港へ」
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宿の奥さんは、約束した時刻になっても現れない。宿の主人にその旨を伝えると、
「あと10分後くらいしたらくるよ。」
という。本当に10分遅れで奥さんは車でやってきた。彼女はあまり悪気はないようだ。これくらいの遅れはギリシャ人にとって普通なのだろうか。

ミコノス島の港は「ニューポート」と、ミコノスタウンにある「オールドポート」の二つがあったが、私のフェリーは「ニューポート」出発だ。奥さんは私のフェリーチケットを見て「ニューポート」に車で送ってくれた。

宿の奥さんは私を降ろして車を止めるなりして再び船から降りてくるを客引きしにスタンバイし始めた。毎日このように客引きしているのだろう。

到着してまだ少々時間があったので、昼食をとることにした。港には小さな売店があり、そこでハム&チーズサンドイッチを1.5ユーロ(195円)で購入した。サンドイッチは焼かれた状態で出てきたので、アツアツでとてもおいしい。しかし、ハム一枚とスライスチーズが食パンにはさんであるだけのこのサンドイッチは、私にとって物足りないものだった。

「アテネ?」
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フェリーは出発45分くらい前にやってきた。この季節はたくさんのフェリーが往来するので、最初あまりにも早く来たので違う船だと勘違いしていたのだ。船のまわりにいる人にチケットを見せて確認したところ、この船だとわかった。確認して良かった。

乗り込むとあまり人が乗っていない。広々としたスペースには、私ともう一つのグループぐらいしかいなかったのだ。よほど人気のない船なのだろうか。主ぱつししばらく経ち、私はすぐに寝てしまった。そして1時間ほどして起きると、周りにはたくさんの人々が座っているので驚いた。きっとどこかの島に停泊して乗ってきた人々なのだろう。なぜ乗っているのは老人ばかりである。今日が平日だからだろうか。

18時30分、船はアテネに到着した。船を降り、インターネットで調べておいた路線図にある地下鉄の駅を探すが、見当たらない。レストランの人に聞いても、通りすがりの人に聞いても、地下鉄の駅はないという。確かに地図には港から電車が出ているのだが・・・どうやら、駅のある港は別の港のようだ。通りすがりの人に聞くと、アテネ市内へ行くバスがあるというので、そのバス停まで案内してもらった。

15分程経ち、観光客用のような大きなバスが到着した。バスの車掌に聞くと、アテネまで行くと言う。私はバスの下にある荷物スペースにザックを入れ、バスに乗った。

正直このバスがアテネのどこに行くかはわからない。とりあえず市内にいけばバスや電車があるだろうと思い、バスに乗り続けた。

まわりの景色は、最初田園風景が広がって本当にここがアテネかと思ったが、バスが進むに従って徐々に街となってきた。建物は徐々に高くなっていく。よく見ると、ギリシャの「国防省」などが見えたので、ここがアテネだと思いホッとした。

たぶんバスの終点はアテネ市内の中心辺りだと思ってバスを乗り続けた。そして運転手が、
「ここが終点だ。」
といって乗客を降ろしているのを見て、私はそこで降りた。

見たところ、アテネの街はなんだか治安が悪そうである。街のいたるところにスプレーの落書きがあるし、あまり奇麗な街とは言い難かった。フラフラ歩いている変な人も多い。すでに日が沈みかけているので、早くホテルを見つけなければと思った。

一応インターネットでアテネのユースホステルを探しておいたので、パソコンに入っているその地図を片手に歩く。まず自分の現在位置がよくわからなかったので、私は近くにいた警官に今の場所を聞いた。
「その通りならここだよ。」
その言葉を信じ、警官の言う通りに従ったが、その通りはすぐに行き止まりとなってしまった。そこでまた通りすがりの人を捕まえて地図を見せた。すると、その人は道を教えてくれ、
「このパソコンやあなたの大きなザック。気をつけな。強盗に盗られちゃうよ。」
やはりこの辺りの治安は悪いのだろうか。

案内された通りにあるくと、地図と同じ形をした曲がり角を発見した。地図にはギリシャ語で通りの名前が書かれていたが、その通りにある通りの文字と似ているので、私はその通りを進んだ。

しばらくして、地図と似たような交差点を発見した。その交差点の近くにホテルがあるはずなのだが、見つからない。通りの人に聞いてみると、
「それはこっちだよ。」
と指で示してくれた。しかし、その通りに行ってもそれらしきものはない。また違う人に道を聞くと、違う通りを指で示す。どうやら、通りすがりの人々の頭に、このあたりの地図がインプットされている確率は極めて低そうだ。

私はそう思い、地図を頼りに交差点を見渡した。たしかこの場所にあるはずである。すると、4階建てのビルに小さくユースホステルのマークがあった。この治安の悪そうな場所でやっとホテルを発見である。私はすぐにそのホテルに向かった。

『ユースホステル「Hotel Lozzani」』
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外からみるとなんだか怪しい光を放っている。まるで日本のラブホテルのようだ。本当にここがユースホステルかと疑った。

入るとすぐに階段があり、上がるとレセプションがある。そこで、
「ここはユースホステルですか?」
と聞くと、レセプションの人はそうだという。ドミトリー(共同部屋)で16ユーロ(2080円)。ネットで調べた時は10(1300円)ユーロの場所があったが、もう辺りは薄暗くなってきていたので探すのをあきらめ、私はこのユースホテルに決めた。

ユースホステルの名前は「Hotel Lozzani」。4階建てで、部屋があるのは上3階だ。白を基調とした建物、内装はなかなか清潔感のあるものだ。2階に上がるとインターネットスペースがあり、そこに多くの人が集まっている。このホステルにはテーブルやイスが並ぶ共有スペースがないので、皆階段や地面に座っていた。

4階に上がり、自分の部屋である26番の部屋を探した。部屋は一番奥にあった。中に入ると真っ暗。どうやら部屋では数人が寝ているようだ
。私の存在に一人の男が気付き、私に、
「今いったい何時だ?」
と聞いてきた。私の時計は壊れていたので時間はわからない。なので、
「時計は持っていない。だけどたぶん6-7時ごろだよ。」
と教えると、
「それって午後の?」
と聞いている。彼はどうやら一日中寝ていたようだ。

私は荷物を置いて、夕食を食べに外に出た。念のため、レセプションに、
「このあたりは治安が良いですか?」
と聞いてみると、
「ええ、治安はいいですよ。」
と答えてくれた。しかし、辺りはもう薄暗かったので、なるべく大きな通りを歩いた。

「久し振りのライス」
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ピタ(ケバブのような食べ物)を3ユーロ程で安く売っている店はたくさんあったが、最近ほとんど夕食がピタだったので、他に安いものはないかと探した。

15分ほど歩くと、地下鉄Metaxourgelo駅がある広場に出た。近くには高そうなホテルが連なる。このあたりだったら何か良い場所があるのではと思い、数軒のレストランのメニューを見ていると、「ライスとトマトソース 3.8ユーロ(492円)」があり、久し振りに米を食べたかった私はそのレストランに入った。

注文した後に、水とパンのサービスが出てくる。サービスのパンは表面が厚くて硬く、中はしっとりとしてとてもおいしかった。ウエイターが、
「チーズはいりますか?」
と言うので、もちろんと答えた。そして出てきた料理は、ライスの上にトマトソースがのり、まんべんなくチーズが載せられた料理。チーズの多さで下のライスが見えなかった。チーズ好きの私にはたまらない。

食べ終わり、会計を済ませると、ウエイターが、
「Merci boque(ありがとうございました。)」
とフランス語でお礼を述べてきた。このレストランはフランス人が経営しているようである。

「ホテルに戻る」
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レストランから帰る時はすでにもう薄暗くなっていた。早く帰らなければと思って急ぎ足でホテルに向かう。その途中、私は別のユースホステルの看板を見つけた。その名は「Athens International Youth Hostl」値段は残念ながら私の泊まるホテルと似たような価格、15~16ユーロだった。10ユーロのユースホステルもあるというが、一体どこにあるのだろうか。しかし、このユースホステルは下の階にラウンジがあるので、とても使いやすそうだ。私は明日はこのホステルに移動しようと思った。

ホテルに戻ってインターネットスペースでメールをチェック。部屋に戻るとまだ暗い。どうやらこの部屋の宿泊客はこのままあ明日まで寝るようだ。

私はシャワーを浴び、明日に備えて寝ることにした。

7月12日 ギリシャ(5):サントリーニ島~ミコノス島 「絵に書いたようなギリシャ:ミコノス島」

ギリシャ・ミコノス島

「起床」
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朝は皆が少しざわめいているので、それで目が覚めた。どうやらクーラーが壊れているので、ホステルの人に直してもらっているようだ。

私は腕時計が壊れてしまっているので、時計がない。なので朝起きても何時かわからない。私は時計の代用としてパソコンの電源をつけ、時計を見た。時刻は9時。最近この時間に起きる時間が多いので、体がもう覚えているようだ。

「朝食へ」
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私は朝食を食べに近くのスーパーに行った。スーパーではやはり量り売りで安く果物が売られている。私はリンゴ、バナナ、プラム、ヨーグルト、オレンジジュースを買った。占めて2.50ユーロ(325円)である。さらに、日本から持ってこればよかったと思っていたサンダルがなんと1.30ユーロ(169円)で売っていたので購入。安いわりに意外としっかりした造りとなっていた。ラッキーである。

「フェリー乗り場へ」
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フェリー乗り場へはホステルからシャトルバスが3ユーロ(390円)で出ていた。一応公共交通機関を使うより1ユーロ安かったので、私はこのシャトルバスを利用した。

人一杯に詰め込んだ小さなシャトルバスは、定刻の午前11時より少し遅れて出発し、私を崖の下にある船乗り場へと運んでくれた。

フェリー乗り場にはたくさんの人々でごった返していた。皆ミコノス島へ行くのだろうか。中には日本人もたくさんいた。私の乗るフェリーは「Sea Runner」。私のフェリーの前にフェリーが二つやってきたて、皆ミコノス島に行く。やはりミコノス島は人気なようだ。

「フェリー搭乗・出発」
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フェリーは少し遅れてやってきた。ロードス島から来たときのフェリーと比べて小さいが、なかなか大きなものだった。船の形からして、高速船んおようだ。ミコノスへは3~4時間で着くそうだ。

フェリーの中に入ると、飛行機のようにたくさんのシートが並べられている。船のシートは広々としているので、私は好きだ。このフェリーの乗客はあまりいない。あまり人気がないのだろうか。私は空いていた窓際の席を確保した。

船は客が乗るとすぐに出発した。出発してしばらく経つと、時々船が上下に激しくゆれる。このフェリーは結構揺れる。最近船酔いはしない方だが、ここまで揺れるとさすがの私もちょっと気持ち悪くなってしまう。はやくミコノス島に着かないものだろうか。

「ミコノス島到着」
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ミコノス島に近づき、船の窓からミコノス島を眺めていると、船員に、
「もう船を降りる準備をしてください。」
といわれた。船が岸に着いてから降りる準備をするものだと思ったが、急かされたので驚いた。

船の外を出るろ、ミコノス島の景色が広がる。街以外、あまり家の密度は高くなく、静かな雰囲気が漂っている。家のほとんどが白で、窓の扉は濃い青で塗られている。なんとおしゃれな島だろうか。

船を降り、港に出ると、ホテルの勧誘が2人やってきた。最初は20ユーロ(2600円)だったが、15ユーロのものはないかと聞いたところ、小さな部屋ならばあるというのでそこに決めた。聞くと、インターネットも無料でできるというのだ。これはラッキーだ。勧誘されたホテルの親父の奥さんが、私を車でホテルまで連れて行ってくれた。

ホテルは港から車で10分程で到着した。外見は他の家々と同じように白く、ドアは濃い青だ。部屋を覗くと、中に3つのベットがあるドミトリーのような部屋だった。部屋はとても奇麗である。
「あなたのベットはこのベットよ。他の2つは使わないでね。」
と言って鍵を渡してくれた。なんと、私以外もうこの部屋に泊らないようなのだ。15ユーロ(2250円)でシングルとはラッキーだ。おまけに3人分なので広くて奇麗だ。私は料金を払い、部屋を後にして早速街に出た。

「絵にかいたようなギリシャ・ミコノス島」
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最初、宿の人に道を教えられたが道を一本間違えてしまったようで、歩いても歩いても街らしきものが現れない。なのでもう一本の道があった方角へ道を変え、ようやくミコノス島の街、ミコノスタウンに辿り着いたのだ。

このミコノスタウンは、まさにギリシャのイメージぴったりの街だ。よく日本でギリシャのエーゲ海が紹介されるポスターはきっとこの島の写真を使用しているのだろう。

街には真白な家々が所狭しとならんでいる。海はその白い家々ととても合い、ロードス島のようなエメラルドグリーンと濃いブルーの色がとても美しい。まさに絵にかいたギリシャ・エーゲ海がここにあった。

街を見渡すとどの店もおしゃれであり、そこにいる人々もおしゃれな人が多い。私がこんなところにいてもいいのかという感じである。街の物価は高く、私の入れる店はなかった。

あとで調べてみると、このミコノス島には多くの有名人が別荘を構えているという。そんなにゴージャスな街だったとは知らなかった。

また、この島には別の顔がある。街を歩くと、時々変な格好をした男をよく見かけるのだ。ピチピチでヘソを出しているTシャツを着たり、妙に露出度が高い服を着ていたりする。そう、彼らはゲイなのだ。

後で調べてみると、この島はヨーロッパでゲイの街としても有名なようだ。普通に男同志が手をつなぎ合って歩いている姿を何度も見た。なんだか色々な事情のある島である。

「ミコノス島を歩く」
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街を出て、私は海岸沿いを2時間程歩いた。海岸沿いはこれまた美しい。海はもちろん奇麗だが、街を出ると家の密度が低いので、とても開放感があって気持ちが良い。

ミコノス島はとても風が強いことでも有名なようだ。海岸沿いは常に強い風が流れる。なのでミコノス島では風車も有名だ。

歩いていると、海岸沿いにはたくさんのビーチが現れる。どのビーチもとてもきれいなのだが、たまにゴミが散乱しているビーチがあるのが残念だ。

海岸を歩いていると、私は一つの街に出た。この街からバスが出ているようなので、私はミコノスタウンへバスで戻った。料金は1.5ユーロ(195円)。ミコノス島の海岸沿いウォーキングはとても魅力的なものだった。

「物価の高いミコノスタウン」
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私はミコノスタウンで夕食を取ろうと思ったが、高いレストランばかりでなかなか手頃なところがない。やはり、バックパッカ―の私にとっては不向きな場所なのか。

しばらく歩いていると、ピタ(ギリシャの?ケバブのようなもの)のお店が現れた。ピタのお店は基本的に安い。少々脂っこいが、安いので私はよく利用している。

私が頼んだのは、ケバブ・ピタ。中には棒状の牛のハンバーグ、トマト、フライドポテトが入っている。値段は2.5ユーロ(325円)。お腹が空いていた私は一気にかぶりついた。

「夜のミコノスタウン」
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私は一度ホテルに戻り、休憩した。私は基本的に、見知らぬ土地の夜は物騒だと思うので出歩くことはあまりなにのだが、このおしゃれな雰囲気のミコノス島は治安がよさそうなので、独りでミコノスタウンに出歩いてみた。

思った通り、ミコノスタウンの夜はこれまたおしゃれな雰囲気が漂っている。ミコノスタウンにはたくさんのバーがあり、そこから流れてくる音楽が街全体の空気をより一層魅力的なものにする。夜11時と遅いの、まだたくさんの人が賑やかにそれぞれの夜を楽しんでいる。

とても良い雰囲気であるが、その中に溶け込めない独りぼっちの私は少し寂しさを感じた。一人旅はとても良いものだ。土地や人、風景は、やはり一人の方がより深く肌で感じることができるものだと思う。しかし、やはり独りなのでたまに寂しさを感じてしまう。これもまた一人旅特有のものなのだろう。

私は少し夜のミコノスタウンを楽しんでから、ホテルに帰った。今日はたくさん歩いたので疲れがたまっていたのですぐに私は寝た。

2009年7月13日月曜日

7月11日 ギリシャ(4):サントリーニ島 「火山の島:サントリーニ島」

サントリーニ島 フィラ

「起床」
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私は朝9時頃起床した。ホテルで朝食を取ろうと思ったが、ホテル代に朝食は含まれておらず、別途5ユーロ(650円)かかるので、私は近くのスーパーマーケットに行き、バナナとリンゴ、そしてヨーグルトと缶のリプトン「グリーンティー」を買った。占めて2ユーロ(260円
)。ホテルに朝食が付いてなければやっぱりスーパーに限る。

朝食をスーパーの前でとり、ゴミを捨て、私はホテルオリンピアに戻った。ホテルオリンピアはサントリーニに夜中着いて空いているところがここぐらいだったので、泊まったのだが値段が25ユーロ(3250円)と高い。他の部屋に移っても15ユーロ(1950円)になると言っていたが、私は他にももっと安いホテルはないか探した。

ホテルで1時間1ユーロ(130円)でインターネットが使えたので利用し、新たなホテルを探した。最初テントを持っていたのでキャンプを考えた。しかし近くのキャンプ場は12ユーロかかる。もっと安いホテルやキャンプ場はないか探した。

すると、「Youth Hostel Anna」というユースホステルがあることがわかった。早速電話で確認してみると、なんとドミトリー(共同部屋)5ユーロ(650円)で利用できることがわかった。5ユーロとは破格である。こんなチャンスはないと思い、早速行くことにした。

キムさんとはここでお別れである。キムさんはこのオリンピアホテルに泊まるらしい。このホテルはとても過ごしやすいので気に入ったようだ。

「サントリーニ島のバス」
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ユースホステルへはバスで行くのが良いとオリンピアホテルの方が教えてくれた。違うホテルに移るのに教えてくれてとても感謝する。

私はバス停で待つが、なかなかバスが来ない。私が行くpressia beachに行くバスは、聞くところによると30分に1本のペースで来るというが、なかなか来ない。

しばらくして4人の家族がバス停にやってきた。彼らはフィンランド人。フィンランドは夏でも涼しいらしい。さすが北欧である。しかし、こうして話しているうちにバスが一本通り過ぎてしまった。ギリシャのバスは自分が手を挙げて運転手に知らせないと止まってくれない。私たちが乗る
であろうバスはあっさりと行ってしいまった。このせいで、このフィンランド人の夫は奥さんに怒られる羽目になってしまった。いっぱい話してすみません。

20分程経って別のバスがやってきた。今度は忘れずに手を大きく挙げ、バスを止めた。この辺りのバスは観光用の長距離バスで使うようなバスをローカルバスとして使っている。なので大きな荷物もしたの荷物置場に置くことができた。

バスの車掌に、
「このバスは(私の目的地である)ぺリシャビーチに行きますか?」
と聞いた。すると、
「このバスはそこには行かないよ!次のバスだ!」
と行って、次のバス停で私を降ろし、
「早く降りろ、早く降りろ」
と叫ぶ。なんなんだこの車掌は。私のように良く分からない観光客なんてごまんといるはずであるのに、なぜこのような態度なのか。この車掌は残念である。

次のバス停で降りると、すぐに次のバスがやってきた。
「このバスはぺリシャビーチに行くよ。」

やっとのことでぺリシャビーチ行きのバスに乗ることができた。ぺリシャビーチまでは2ユーロ(260円)。バスはサントリーニの火山でできたと思われる高い山を越えていく。この雰囲気は昨日のロードス島とは全く違うもの。地面も火山のせいなのか、濃い茶色だった。高台からは街全体が見下ろせたので、とても奇麗だ。

バスは色々な街を通るため、少し多回りしてぺリシャビーチに向かい、30分程で到着した。バスの通り道に私の泊まる予定の「Youth Hostel Anna」があったため、私はバスが通った道路を直進してホステルに向かった。

「Youth Hostel Anna」はこれこそユースホステルという感じだ。ホテルに掛けられる部屋番号などを示すプレートは、なんだか子供っぽくデザインされている。ホテルのロビーには20代の若者がたくさんくつろいでおり、昼間だと言うのにビールを飲んだりして、わいわいがやがやしている。

レセプションに行き、地下にある5ユーロ(650円)の大きなドミトリーを一泊お願いした。ドミトリーなのになぜか鍵を渡され、案内されると、ベットの近くには大きなロッカーが置かれていた。今までこんな大きなロッカーが置かれたドミトリーに泊まったことはない。これはラッキーである。ドミトリーにはもう昼間だというのにたくさんの人が寝ていた。夜中に遊んでいたのだろうか。

「レストラン・アトラス」
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ホステルの向かいにある「レストラン・アトラス」では、なんとホステルのゲストは全品15%OFFで利用できる。

私はホテルに荷物を置いて、ここで昼食をとることにした。昼食はお店の看板に書かれていたものを注文(名前をどうしても思い出せない)、確か正規の値段で5.50ユーロ(715円)であった。

注文したものはニンジンやナス、ポテトの上に卵とチーズを乗せてオーブンで焼いたものだ。とてもおいしそうである。卵がフワフワして、中にはたっぷり野菜が入っていたので、見た目以上にボリュームがあった。私にとって大満足の一品だ。

「バスの遅延」
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次に、私はサントリーニ島を歩き回ることにした。サントリーニの中心街フィタに行こうと、ホテルの近くにあるバス停でフィラ行きのバスを待つ。しかし、バスが一向にこない。バス停には徐々に人が集まってくるが、バスは来ない。どうやら相当バスは遅れているようだ。私の隣にいたフランス人夫婦は私に、
「Good luck!」
と言ってどこかに行ってしまった。本当にバスは来るのだろうか。

30~40分経過し、ついにバスが到着した。が、違う行先のようだ。私が、
「このバスはフィラに行きますか?」
と聞いても、
「フィラには行かないよ!」
と強い口調で言ってくる。どうやらこの島のバスの車掌は皆このような感じなようだ。

それから5分後、ついにフィラ行きのバスが現れた。見るとバスの車掌はさっき私がここに来たときの車掌と同じ。このバス一台でこの路線を回しているのだろうか。
サントリーニ島 フィラ
「サントリーニ島、フィラの絶景」
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30分ほどバスに乗り、フィラに到着した。私は疲れて寝ていたので、車掌に起こされ下車した。こんなことは日本の電車に乗っていた時以来である。フィタが終点で良かった。

フィラは、崖の淵に造られている変わった街である。なぜ崖に造られているのだろうか。フィラの崖の下に昔の港があるので、崖の下と上で港から大分離れてはいるが、きっと港町として栄えていたのだろう。

バスを降りたところは街の外れだ。そこから街へ進み、絶景が見えるところはどこかと探す。しばらく歩くと崖に作られる街が現れ、そこからは海が広々と見渡せる絶景が広ろがった。そこには島の隣に浮かぶ火山島も見えた。

私は崖を沿って街を歩いた。街にある建物はほとんど白く、まさにギリシャという感じだ。崖沿いにはたくさんのレストランがあり、夜になると夕日を見ながら食事をすることができるという。値が張るので今回は行かないが、いつかこんな場所で食事をしてみたいものだ。

しばらく歩くとロバに乗ったおじさんが現れた。そこからまたしばらく歩くと、ロバの大軍が狭い道に埋っているではないか。どうやらこの辺りには観光用にロバが乗れるらしい。

ケーブルカーが走り、乗れば崖の下に通じていたが、往復8ユーロ(1040円)と高額であり、下の方には何もなさそうなので私は乗ること諦めた。

このサントリーニ島に泊まるのは今日だけ。明日はもうミコノス島に出発するつもりだったので、フェリーチケット売り場へ向かった。

先出の韓国人のキムさんによると、ミコノス島はギリシャで一番人気のある島であるようだ。どうやら本当のようで、チケット売り場の人がシーズンである今は一日に3便も出ていると教えてくれた。私はその中でも一番安い、32ユーロ(4160円)の「Sea Runner」に乗って行くことにした。

「サントリーニ島のバス」
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私はまたホステルのあるぺリシャビーチに行くためにバスに乗る。今度はすぐに来た。しかしバスに乗り、車掌に行き先を聞くと、どうやら行先が違うようだ。
「ちゃんとバスの上に書いてある行先を読め。」
そういわれてもギリシャ語と英語が交互に表示され、私が見た時はギリシャ語だったので読めるはずがない。しかも私にとってその文字はとても読みにくかった。
「文字が読めないんだよ。」
そう言うと車掌は次のバス停で私を降ろした。やはりなんだかこの島の車掌には気分がよくならない。

しばらく待つと、すぐに次のバスがやってきた。今回はぺリシャビーチ行きと書かれているのを読むことができた。今回がこれであっているようだ。

バスに乗り、しばらくしてお客が少なくなると、運転手がなんだか叫びながら笑っている。ギリシャ語なのでなんで笑っているかさっぱりわからないが、びっくりだ。そして運転手が携帯電話を取り出して電話をするではないか。この国ではバスの運転手が電話をしながら運転することが認められているのだろうか。だとしたら驚きである。

バスはぺリシャ・ビーチの前で止まる。私はまだビーチを覗いたことがなかったので、ビーチを覗いた。ここのビーチの砂は黒い。きっと火山の影響であろう。水は奇麗だが、ロードス島のエメラルドグリーンには遠く及ばない。あのような美しい海がギリシャ全土で見られるわけではないのだろう。

「再びアトラスへ」
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ホテルに着き、私は再び「レストラン・アトラス」で食事を採った。今回食べたのはパスタのポロネーゼ。割引なしで5ユーロ(650円)と、一番安かったからだ。

久し振りにパスタを食べて満足である。ここのパスタは、日本と味が特に変わらなかった。やっぱるポロネーゼは世界どこでもポロネーゼなのだろうか。私はまさに日本人という感じでスプーンとフォークを使ってパスタを食べる。やはりこの食べ方が一番食べやすい。私にとってスプーンなしで音を立てずに食べるのは至難の技である。

「ユースホステルの夜」
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食事を終えた後、私はユースホステルのラウンジで、いつものように日記を書いていた。ビールがやはり安く、0.8ユーロ(104円)でheinekenの缶ビールを購入することができたので、また飲んでしまった。やはりビールはうまい。

ユースホステルのラウンジは、暗くなるたびに賑わってきた。多くの白人の若い旅行者がビールを
飲み交わしている。しかし私はもう眠たかったので、すぐに寝るために下の階に行った。

そして下の階に行くと、なんとクーラーが壊れ、水が滴れてくる。クーラーは扉の上にあるため、部屋に入る時に冷たい雨がふるというわけだ。わりと奇麗だから良いと思っていたが、5ユーロだから仕方がないだろう。

しかし、ドミトリーがとてもうるさかったのにはあまり我慢ができなかった。夜遅くになってもだれかが何か話をしているのだ。
「すみません、寝るので静かにしてください。」
こう彼らに言っても、声が小さくなるだけで話し続ける。ユースホステルというのはこんなものなのだろうか。
だが、眠たかった私はいつの間にか寝ていた。

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7月10日 ギリシャ(3):ロードス島~サントリーニ島 「蝶の谷」

ロードス島 蝶の谷

「起床」
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今日でこのロードス島ともおさらば、次は火山の島サントリーニ島へフェリーで移動する。出発は午後5時。まだだいぶ時間があった。

ギリシャ政府の観光客向けページにロードス島の紹介があるのだが、そこにロードス島の「バタフライ・バレー(蝶の谷)」についての記事があった。その谷にはたくさんの蝶が住み、7~9月がシーズンだという。今まさにシーズン真っただ中だった。

ただ、そこに行くにはバスの運賃往復10ユーロ(1300円)、入場料4ユーロ(520円)かかるので迷いどころであったが、せっかくのシーズンなので行くことにした。

昨日英国人に振り回されていた韓国人のキムさんも、バタフライ・バレーに興味を持っていたようで、モトさんと合わせて3人でバタフライ・バレーに向かった。

バス停へ向かう途中、私達は朝食を食べた。通りにあった小さなカフェで、私は1.5ユーロ(195円)のチーズパイと持参の水を飲んだ。その時、キムさんが、缶のリプトン『グリーンティー』を飲んでいたのが気になった。こっちでも緑茶は飲まれているようだ。しかもリプトンが緑茶を出しているとは驚きである。キムさんは、
「でもこれ全然日本のものとは違うよ。」
と教えてくれた。気になるので、今度自分で試してみることにする。

「新市街散策」
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バタフライ・バレーへ行くバス乗り場に行くと、ちょうどバスが出たばかり。運がない。次のバスは1時間後であった。

仕方がないので、私達は別々にそのバス停のまわりをうろちょとしていた。しばらく経ってモトさんが、
「近くに大きな教会あったから行くのはどう?」
と誘ってきたので、3人で近くの大きな教会に行くことにした。

港に沿って建てられている大きな教会の中には、たくさんのフレスコ画が描かれている。イエスキリストのみならず、パウロやジョンなど聖書に出てくるであろうたくさんの人物が描かれている。

普通、教会にはイエスキリストの肖像かないが、こうしてたくさんの人物が描かれているものは、この地域の宗派である「ギリシャ正教会」の特徴であるとキムさんが教えてくれた。

実は彼女はキリスト教徒である。韓国には人口の半分がキリスト教であるそうだ。モトさんも知っていて、結構常識のようだ。恥ずかしいことに私はその事実を知らなかった。

「バタフライ・バレーへ」
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教会を出てバス停に行って5分ほど待つと、バスは現れた。ついにバタフライ・バレーへ出発である。

正直、バタフライ・バレーと言ってもどれだけ蝶がいるのかというのは疑わしいものだ。私とモトさんは、
「ほんとうにそんなに言う程いるんかいな。」
と話していたのだ。ただ、たくさん蝶がいることを信じてバスが到着するのを待った。

「バタフライ・バレー到着」
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バタフライ・バレーへは、出発してから45分程で到着した。バスを降りでしばらくあるくと、真中に小川のある小さな谷にでた。これが「バタフライ・バレー」なのだろうか。よく見ると少し蝶が舞っている。もしかして奥に入ってもこの調子なのだろうか。

入場ゲートで4ユーロ(520円)の入場券を購入し、私たちはバタフライ・バレーに入った。

しばらく歩くと、その風景は私の想像を超えていた。本当にたくさんの蝶がいる。木で太陽から隠れているのだろうか、木の陰になっている側には大量の蝶がとまっているのだ。想像を絶する程多くとまっている。少し気持ち悪いくらいである。

あちこちをみると、木のみならず、葉っぱや岩陰にもとまっている。なぜこんなに大量にいるのだろうか。

ただ残念なのが、それらがとまるだけで舞っているわけではないのだ。木を揺さぶって蝶を舞わせたかったが、多くの観光客がいる前でそんなことは不可能である。蝶よ舞え舞えと、心の中で叫ぶだけである。

バタフライ・バレーの道は最初なだらかだったが、途中で山を登るかのように急になってきた。上まで登った時には、モトさんは疲れをとるために寝っ転がっていた。

「修道院」
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バタフライ・バレーの上には修道院があり、私たちはそこに行ってみることにした。小さな教会を見ることができただけだったが、そこの隣にあるベンチからみる風景はとても良いものだった。急な坂を登ってきたかいがあるものだ。私たちはそこで水などを飲んで休憩した。

「帰り道」
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帰り道は行きと同じだった。しかし、行きより多くの蝶が飛んでいる。行きのときは蝶のお昼寝タイムだったのだろうか。とても幻想的だった。ただ、まだ多くの蝶が飛んでいない。この蝶すべてが飛んだらどうなるのだろうか。一度その光景を見てみたいものだ。

下まで降り、私とキムさんは昼食にパイを食べた。モトさんはあまりお腹が空いていないようだ。パイを食べたが、とても脂っこい。この国の食べ物はなんだかほとんど脂っこい。私の選択が間違っているだけなのだろうか。

バスの出発時刻は14時と言われていた。バスは少し早目に早めに着いたが、始発なのにも関わらず13時50分に出発した、ギリシャのバスは結構いい加減である。

「フェリーへ」
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バスが到着し、私たちは荷支度をするためナソス(ホテル)へ向かった。そしてホテルに到着し、荷支度を整えたがまだ時間があった。

そこで、キムさんは考古学博物館でまだ見ていないものがあるので行き、私とモトさんは無線LANの使えるカフェに行き、インターネットをすることにした。

カフェを選ぶ際、どこでも同じなのか強引に店に入れようとするところがある。あのように呼び込むスタイルは個人的にあまり好きではない。強制されて気持ち良いことなどないのだ。

私とモトさんは、ナソスの近くにあるカフェに入り、インターネットをした。モトさんもmixiをやっていることを聞き、早速マイミク申請した。誰でもmixiはやっているのだな。

30分ほど過ぎ、キムさんが戻ってきた。
「あと30分でフェリーが出発するわよ。急がなきゃ。」
ここでモトさんとはお別れである。モトさんは私とは違う島、クレタ島を目指すからだ。モトさんは旅で初めて会ったバックパッカ―だ。とても良い思い出をありがとうございました。

そしてわたしは、同じサントリーニ島を目指すキムさんと一緒にフェリーポートへ向かった。

「サントリーニ島へ」
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私達の乗る船は、トルコから来たときと違う港から出航するので港を探すのにすこし時間がかかったが、なんとか出航10分前に辿りついた。

サントリーニへの所要時間は6時間、到着時刻はなんと午前12時30分である。真夜中だ。しかし、私は着いてからことを全く考えていなかった。港が24時間あいているということなので、そこで寝るのも良いかと思っていた。

私達の乗った船は「Blue Star Ferry」。このフェリーはとても質が良いようだ。内装はとてもきれいだし、レストランやカフェも充実し、1h3ユーロと有料だが、インターネットも楽しむことができる。値段は30ユーロ(3900円)。良い船に乗れてよかった。

「到着」
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サントリーニ島に到着。到着すると、インフォメーションセンターが開いていた。どうやら、まだホテルを申し込むことができるようだ。私は一泊25ユーロ(3250円)のホテルに泊まることにした。部屋に入り、私は疲れていたのですぐにぐっすりと寝た。

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7月9日 ギリシャ(2):ロードス島 「エメラルドグリーンの海」

「起床」
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昨夜は一緒の部屋にいる英国人のいびきが大きく、あまり心地よく寝ることができなかった。しかし、自分も人の事を言える立場ではないのかもしれない。

朝9時ごろ起床し、私は英国人のいびきから脱出するため、すぐにナソス(ホテルの名前)を出た。

「朝食」
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ナソスでは、当然のように朝食は出なかったので、私はまず朝食をとるために、ナソスの近くにある小さなスーパーマーケットで大き目の菓子パン0.8ユーロ(104円)と0.9ユーロ(117円)ロードス島産の100%フルーツジュースを飲んだ。スーパーと言ってもコンビニの6分の一程の大きさである。この旧市街では、そんなに大きなお店は建っていない。

ベンチで朝食を食べていると、ナソスの親父がボロボロの原チャリでやってきた。
「今日はどうするんだ?泊まるのか?」
私はナソスをどうしても好きになれなかったので、
「泊まりません。」
と言った。するとナソスの親父は、
「じゃあこれからどうするの?」
何も決めてなかった私は、
「わかりません。まだ何も決めてません。」
そう言うと、ナソスの親父は不思議そうな顔をしてその場を去って行った。

「キャンプ場」
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朝食を終えた後、私はそろそろ手荷物のキャンピンググッツを活用しようと思い、キャンプできる場所を探した。ナソスの親父はチェックアウトはいつでもいいと言うので、重たい荷物をナソスに置いて、キャンプできる場所を探しに歩いた。

旧市街を抜けて新市街に出、しばらく歩くとすぐにビーチに出た。ビーチの近くならば何か良い場所はないかと、海岸沿いをひたすら歩いた。

しかし、なかなか良い場所が見当たらない。歩くと、カジノや巨大なホテルが立ち並び、さすが一大リゾート地ロードス島という感じがしたが、なかなか海岸沿いにはキャンプができる場所がなさそうだ。

私は2時間ほど歩いたが見つからなかった。時刻は午後1時半。そろそろナソスに帰ってチェックアウトしなくてはならないと思い、私はキャンプ場を探すのをあきらめてナソスに戻ることにした。

帰り道、政府が運営するインフォメーションセンターに行ってどこかキャンプをするのに良い場所はないかと聞いてみると、このロードス島では法律でキャンプが禁じられているらしい。それを聞いて、私はロードス島でのキャンプを諦めることにした。

インフォメーションに行った後、お腹が空いたのでランチをとることにした。ランチは懲りずにまたケバブを別の店で頼んだ。以前はビーフのケバブを頼んだが、今度はチキンを試してみた。しかし、このケバブにもフライドポテト、チキン、サワークリームと、残念ながら昨日と同じように脂っこいものしか入っていなかった。このケバブはしばらく私の胃のに残る。

「大阪人モトさん」
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旧市街に入り、ナソスに戻ると、ドミトリーにちょうど日本人が来たという。彼の名前はモト。バリバリの関西弁をしゃべる大阪出身の方で、日本では医者をしているそうだ。仕事をしばらく中断し、世界を旅してまわっているのだという。最初はニュージーランドで3か月スノーボードをやっていたのだとか。なんだか羨ましい生き方である。

私はキャンプを諦め、ナソスの近くにあるユースホステルに宿泊しようと思っていた。ナソスのドミトリーがとてもひどいことを聞いたモトさんは、ユースホステルに関心を示し、一緒にユースホステルを見に行こうという話になった。

ナソスの親父には、
「この後はまだ決めていない。わからない。」
とだけ言って去った。わざわざ本当のことを言うのもどうかと思ったからだ。

モトさんと私は、旧市街を歩いて回り、ユースホステルを探した。しかしなかなか見つからない。そこで私は、街の人にユースホステルの場所を聞くことにした。
「ユースホステルへはどうやって行けばいいですか?」
そう言うと、街の人は丁寧に教えてくれる。そうやって道を聞いているときに、偶然ボロイ原チャリに乗ったナソスの親父がやってきて、街の人に私たちが何を聞いているのかギリシャ語で話しだした。そして、
「モトと二人で一部屋でどうだ?2人で20ユーロ、一人10ユーロだ。」
ドミトリーでなく、個室に泊れて同じ値段である。モトさんによると、ナソスのドミトリーは汚いが、個室は奇麗だというから、私達は2人で1部屋に泊ることに決まった。初対面なのに一緒の部屋とは申し訳ないが、ドミトリーより断然良かった。

「エメラルドグリーンのビーチ」
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ギリシャはトルコと同じく暑い。汗がだらだら出てくるのだ。それに私はまだ旅行に出て海で泳いでいなかったので、急に泳ぎたくなった。

モトさんに話すと、快諾してくれたので、早速私たちは2人で海にいくことになった。

ビーチはナソスのある旧市街から歩いて20分くらいだ。海は本当に奇麗で、少し深いところでも底が見える。浅いところはエメラルドグリーン、少し深くなると深いブルーになる海の色のコントラストもまた魅かれる。波はあまりないので、泳ぐにはs

まずはじめに少し泳いだあと、私はビーチの沖に建つジャンプ台へと向かった。ジャンプ台は3段階あり、一番高いところでも遠くからみたらそこまで高く感じなかったが、近くに行くと意外にも高かった。最初の方は、正直腰を抜かしたが、決意をしてジャンプした。滞空時間が長い分スリルは増幅される。

私が行って岸へ帰ってくると、モトさんもやると言ってジャンプ台に行った。後で聞くと、モトさんも最初意外と高くてびっくりしたそうだ。

「90ユーロのフルコース」
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ビーチの帰りに、モトさんの次の目的地であるクレタ島へのフェリーチケットを買いに旅行会社へ立ち寄った。

クレタ島はギリシャで一番大きな島で、ミノタウロスが迷った地下大迷宮の遺跡があるという。私は時間の資金の都合でクレタ島には行かないのだが、おもしろそうな島である。

一番大きい島なので、メジャーでたくさん船があるだろうと考えられるところだが、なかなかクレタ島行きのフェリーを扱っている旅行会社がない。やっと見つけたと思うと、ロードス島からは週に2本くらいしか出ていないという。モトさんは少し困っていたが、2日後に出るということなので、それまでロードス島に滞在するそうだ。

そして私達は夕食を食べるレストランを探しに旧市街を歩いた。ギリシャの『地球の歩き方』を持つモトさんは、そこに書いてあるレストランを探す。せっかく海が近いのでシーフードを食べようという話になったのでシーフードレストランを探す。

しばらく歩いて見つけた。レストランの名前は「FOTIS」。見た目は高そうな雰囲気である。しかし、信じて良いかわからないが、『地球の歩き方』にはおいしいと書いてあるので、入ってみることにした。

入ってメニューを見てみると、案の定高かったが、一桁の値段も結構ある。私は安いものを頼もうと思っていたが、モトさんが
「ウェイターの勧めてくれた、(二人で)90ユーロ(11700円)のシーフードフルコース頼んでみよう。」
というのだ。モトさんが60ユーロ出してくれるということなので、ここは奮発して食べてみようと思い、快諾っした。

楽しみに待っていると、まず出てきたのはしっとりしたパンと、オリーブオイル漬けにしたチーズとトマトソースだ。トルコやギリシャのパンは基本的にパサパサでそこまでおいしいものではなかったが、ここのパンはしっとりとしてとてもおいしい。ソースもオリーブの香りが効きとてもおいしく、全部平らげてしまった。

そして、ついに主役の登場、シーフードの大皿山盛りである。ロブスターから、手長エビ、(普通の?)エビ、タコ、イカ、大量のムール貝、そして名前のよくわからない白魚が載っている。こんなに豪華なものを食べてよいのかと思ってしまった。しかし、そう思いながらもお腹が空いていた私はすぐに食べ始めた。

エビはもちろん焼き立てで、アツアツでとってもおいしかった。ロブスターはもしかしたら生まれて初めて食べたのかもしれない。手長エビも初めてだと思う。ムール貝が大量に盛られていたが、この辺ではムール貝はたくさんとれるので、どこにでも安く売っている。モトさんいわく、
「こっちではムール貝は日本の潮干狩りくらいの勢いやろ。」

全てバターとオリーブオイルだけで味付けされていたが、それだけで十分においしいものだった。ウェイターが私たちに自信を持って勧めただけはある。

「アクロポリスからの夕日」
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お腹一杯に食べた私たちは、とても満足した。ただ、大量にあった全ての料理がオリーブオイルを使用していたため、お腹にたまった。

そこで私たちは口直しになにか飲み物が売っている場所がないか探した。しばらく歩きまわると、小さな酒屋がある。そこでは、ビールとコーラが同じ値段の1ユーロで売っていた。安い!何よりジュースとビールが同じ値段で売っていることに驚いた。きっと日本のビールの値段はほとんど税金なのだろう。

私はさっそく口直しにギリシャのビール「Mythos」を購入した。正直私はビールの味がそこまでわからないが、とてもおいしいものだった。1ユーロの幸せである。

歩きながら飲み、私たちは夕日をみようということで高台を探し始めた。ギリシャでは午後9時頃日が沈む。ちょうど一時間後がその時間だったので、絶交のタイミングだったのだ。

最初、旧市街にある城壁に登ってそこからみようと道を探したが、どうやら城壁にはのぼれそうにない。旧市街の中にクロックタワーというものがあったが、そこまで高くないし、ドリンク付き入場料が5ユーロ(650円)かかったのであきらめた。

新市街にあるインフォメーションセンターに行けば何かわかるのではないかということになり、私達はインフォメーションセンターに行った。するとそこのおばちゃんが、
「アクロポリス公園からがいいわよ。」
と教えてくれて、地図で場所を説明してくれた。

そしてインフォメーションセンターから約20分歩き、アクロポリス公園に到着。そこには神殿跡や、競技場の跡など、たくさんの遺跡もあり、それだけでも魅力的だった。

遺跡を見にきた観光客の団体が、夕日は今からだというときに帰っていたので、モトさんは、
「いまからっちゅうのになんで帰るんやろな。」
と言っていた。観光客は夕日に興味がないのだろうか。

公園の丘に上がり広がったのは、絶壁から見える広大な海だ。そしてその向こうには、今にも太陽が沈みそうである。絶好のタイミングでこの場所にくることができた。ラッキーである。

私たちは、夕日を見た後ナソスに帰った。

ナソスの英国人
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モトさんが寝た後、私は部屋を出てロビーで日記を書いていた。日記を書いて約20分程経過した後、昨日一緒にドミトリーに住んでいた英国人と同じくナソスに泊まる韓国人の女性キムさんが現れた。どうやら英国人の誘いで、二人で旧市街を散歩していたらしい。英国人は積極的である。

そしてその英国人は、私の旅のことをアドバイスし始めた。私がエジプトに行くと言うと、

「エジプトは危ない。(手をたらいくらいに広げて)こんなにおおきな蜘蛛がいたり、蛇がいたり、伝染病がはやっていたりして大変だぞ。気をつけろ。」

伝染病等は何かで聞いたことがある。確かに、食べ物等は気をつけるべきだろう。しかしそんなたらいみたいな大きさの蜘蛛の話は聞いたことがない。次の朝、エジプトに行ったことのあるモトさんに聞くと、
「そんな話聞いたことないよ。」

どうやらナソスの英国人はとにかく話を盛るようだ。昨日の夜私に言ってきた、
「マンチェスターに住む人々は、女8人男2人の割合だよ。」
も盛っているのだろう。

しかし、何が起こるか分からないので、注意するに越したことはない。

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7月6日 ギリシャ(1):マルマリス~ロドス島 「ギリシャへ」

ギリシャ国旗

「起床」
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昨日、午後5時と早い時間に寝たことと、パブロンを飲んだこともあって、体は思ったより回復していた。もう少しゆっくりして体を休めたかったが、今日の朝出発するマルマリス行きのバスチケットがもうすでにあったので、私は出発するしかなかった。

昨日と同じように朝食を済ませ、バス出発の時間まで部屋でテレビを見て暇を潰した。テレビはトルコ語でよくわからなかったが、どうやらイスタンブールでテロがあったことを伝えて
いるようだ。

ついこの間までイスタンブールにいた私は冷や汗をかいた。そういえば今イタリアでG8(先進国首脳会議)が開かれているはずだ。このような国際的なイベントがある時は、テロが起こりやすい。今はテロが起こりやすい都市部にはあまり行かない方が良いのかもしれない。

出発時刻が近づいたので、私は部屋を出ようとした。しかし、ドアが開かない!鍵を開けても閉めてもドアが開かないのだ!このドアノブは昨日からガタガタしていたが、どうやら壊れてしまったようだ。バスの時間が迫っているので私は焦った。ガチャガチャする音を聞き、ホテルの従業員が気づいたようで、従業員もドアを開けようとしてくれた。何度も鍵を開け閉めしてドアノブをガチャガチャして、ようやくドアが開いた。なんだかこのホテルではトラブルが続く。

ドアを開けると、バス会社の人が迎えに来てくれていた。バスへの乗車時刻へはまだ時間があったが、わざわざ迎えに来てくれたようだ。

「マルマリスへのバス」
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バス会社の人は私を一度オフィスに連れていき、待っているように伝えた。5分ほど待つと、タクシーがやってきた。どうやらこのタクシーでバスターミナルに行くようだ。

タクシー代はバス会社が持ってくれるのか、タクシーへは代金を払わずに済んだ。そしてバスチケットを持って、たくさんのバス会社の窓口が並ぶところへ行った。すると、Ben Turistsというバス会社の受付が、
「こっちにこい、こっちにこい。」
と言ってくる。そしてチケットを差し出すと、
「わかった。それじゃあよこしなさい。」
と言ってチケットを取られた。そしてジョークなのか、馬鹿にしているのかわからないが、
「それじゃあバイバイ。」
といってくる。そして私が怒った様子でいると、
「今オリジナルのチケットに切り替えるから。」
と言う。しばらくして、別のチケットを手渡された。そしてまた別のバス会社の人がやってきて、
「Chin?(確かトルコ語で「中国人?」)」
と高い声で馬鹿にしたような声で言ってくる。なんで初対面の人にここまで馬鹿にされなければならないのだろうか。これが差別というものなのだろうか。私はとにかく良い気分になれなかった。

そしてバスは15分程遅れて到着。バスは最新式のもので、とても乗り心地の良いものだった。

マルマリス
「マルマリス着」
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バスは3時間程でマルマリスに到着した。マルマリスはトルコの南西に位置し、ギリシャのロドス島に一
番近い都市である。このマルマリスからギリシャのロドス島へフェリーが出ている。

トルコの大地は素晴しい。イスタンブールも、カッパドキアも、パムッカレもとても美しく魅力的な街だった。しかし、トルコの人々はあまり好きになれない。トルコの全ての人に出会ったわけではないが、どこか信用できないところがある。これは私だけだろうか。

そういった理由と、長い間トルコに居過ぎたことから、私は早くトルコを抜け出し、ギリシャへと進みたかった。

なので、私はマルマリスのスーパーで菓子パンと飲むヨーグルトを買って食べ、急いでロドス島行きの船を探した。最初、イスタンブールのように公共交通機関があるのかと思い、探したが見当たらない。そこで私は街中の人々にどこにフェリー乗り場があるのか聞いた。すると、多くの人が知らないようで、
「あそこにある旅行会社に聞くといいよ。」
と言う。私はトルコの旅行会社というものがどいうも信用できない。行くと、
「今日の便は午前で終わりよ。明日まで待っ
て。」
という。本当にそうかと聞くと、なぜか向こうがイライラしてくる。この旅行会社には嫌気がさしたので、もうすぐにその場を去った。今は夏。シーズン真っ盛りである。たくさんのフェリーが往来していると何かのガイドブックに書いてあった。必ずあるはずである。
しばらく歩くと、再び旅行会社が現れた。そこの人に聞くと、明日ならあると言うが、
「今日はもうフェリーはないか。」
と聞くと、電話で確認してくれ、今から1時間後に出るフェリーならあると教えてくれた。
「ただ、そのフェリーが出る港へは今からじゃタクシーじゃないと間に合わないよ。」
と言う。仕方ないのでタクシーでその港に向かった。

トルコにおける全ての旅行会社の人が悪いわけではなかった。この旅行会社の人はとても良い人だった。大事なのは良し悪しの見極めだろう。最後に良い旅行会社に会えてよかった。

「ギリシャへ」
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港へタクシーで15TL(1050円)、およそ25分程で着いた。タクシーのおじさんに、小さな小銭を混ぜたトルコリラを払うとなんだか不機嫌そうにしていた。最後ま
で嫌な気分にさせられる国である。

ロドス島へは、運賃が35ユーロ、税金が14ユーロだった。税金が高い。

船で国境を渡るのは初めてだ。船乗り場では、空港と同じようにセキュリティーチェックが行われた。パスポートにもスタンプが押され、いよいよギリシャに向けて出国だ。空港と同じように港にも免税店が並んでいたが、私は何も見ることなく船に乗った。
ロードス島
「ギリシャ:ロードス島到着」
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船は一時間程でロードス島に到着した。高速船なので比較的早く着くことができた。後で聞いた話によると、フェリーだとなんと3時間半も掛かるのだという。高速船に乗れた私はとてもラッキーだった。

ギリシャのパスポートチェックに入る。ゲートはEU市民とその他の国民のに分かれていた。EU市民のゲートはすぐに列が開いたので、列の最後の方に並んでいた私は、空いたEU市民のゲートで入国管理官に入れてもらうことができた。

次に荷物チェックだ。ここの荷物チェックは厳しかった。私のザックはとても大きかったので、ザックの底の方まで調べあげるためにすべて荷物を出す羽目になったのだ。隣の観光客は、トルコの免税店で買ったたくさんのたばこをギリシャへ持ち込むことができないと言われていて困った様子だ。きっと免税店で何も言われなかったのだろう。売るためには客のことを考えないトルコである。

「ペンション・ナソス」
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港を出て、私はあまりユーロを持ち合わせていなかったのですぐにATMへ向かった。私は国際キャッシュカードを利用している。別にレートが良いわけではないが、クレジットカードや現金で持つより安全だからだ。

港を出ると、2、3人の親父がホテルはもう決まっているかと客引きしてくる。私はまず次の島に行くフェリーを探したかったので、
「今フェリー探してるからあとでね。」
と言って断っていたが、ある親父が、
「ドミトリー(共同部屋)で一泊10ユーロでどうだ?」
といってきた。10ユーロと言えば、日本円で1300円程である。とても安い。私は迷わずこの親父の言うホテルに泊まることにした。

親父は、私の重たいザックをスクーターの足元に置き、
「後ろに乗れ。」
と言ってきた。そして私たちはスクーターに2人乗りしてホテルに向かった。

途中、警察官の前を通ったが何も言わない。ギリシャではスクーターの二人乗りが認められているのだろうか。

私達は港から15分ほどでホテルに着いた。ホテルの名前は「Pension Nasos」。なんだか見た目がとてもボロい。いかにも怪しげな雰囲気である。

中に入ってドミトリーの部屋を見せてもらった。そこにはすでに、中年の太ったおばさんが横たわっている。ベットを見ると、マットにシミが付き、虫が喰ったような穴がたくさん空いている。部屋にはテレビがあるが、傾いているテレビ台に載り、少しでも触ったら落ちそうな雰囲気だ。

10ユーロという値段の安さに魅かれてこのホテルに決めたが、これはひどい部屋だ。でもギリシャにおけるホテルの市場価格をよくわかっていなかった私はとりあえずここ「Pension Nasos」に一泊することにした。

「世界遺産の街」
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私はナソス(Pension Nasos)に荷物を置き、街を歩いた。ここ、ロードス島の旧市街は街自体が世界遺産。後で聞いた話によると、イスラムとキリスト教の戦いの場の最前線であった砦なのだとか。街を囲む壁はとても厚く、簡単には壊れそうにもない。大砲では壊れないように設計されているようだ。

街全体が遺跡であり、皆遺跡の中で暮らしている。まるで迷路のように小さな路地が広がり、目印を覚えておかなければすぐに迷ってしまいそうだ。通りの石畳に使われている石は丸くて長いので、道はとてもでこぼこしている。歩く度に足のツボが押されうようである。

トルコから船で一時間しか掛からなかったのにも関わらず、雰囲気は一転。街全体がとてもロマンチックである。私はすぐにこのロードス島を気に入った。

「ギリシャの食べ物」
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遺跡が広がるのは旧市街まで。旧市街を出ると、すぐに新市街にでる。新市街は大きな都市とは言わないが、多くの人でにぎわう栄えた街であった。私はお腹が減っていたので、夕食をとるためにに何か良い店がないかレストラン街を探した。トルコもそうだったが、ギリシャのレストランは店の中に席を設けるのはわずかで、席のほとんどが外に設置されている店が多い。それだけ雨が降らないということであろうか。

私は店に入る前にメニューを見て、安くてボリュームのあるケバブのようなものがおいしそうだったので、店に入ることにした。値段は2.5ユーロ(325円)。ピデというらしい。頼むと感じの良いおばさんがすぐに持ってきてくれた。

ピデの中身はボリューム満点。ポテトにカリカリに焼かれたビーフ、そしてサワークリームが入っていた。最初はとてもボリュームがあって良いと思っていたが、食べると徐々にその脂がしつこくなってきた。なにせ全て脂っこいものでできているのだ。無理もない。私は残すのが嫌いなので、残さず平らげた。しかし、すこし気分が悪いので、50セント(65円)のミネラルウォーターを頼んで口直しした。

周りの店を見ると、そのほとんどが、ひとつの皿に肉やシーフード、そしてフライドポテトなどの脂っぽいものが載ったものだ。そして必ずと言っていい程、サワークリームが載せられている。ギリシャ人はサワークリームが好きなのだろうか。本当に脂がたくさん載っているようだ。

物価はだいたいトルコの2倍くらいする。ギリシャに来ると、トルコの物価がいかに安かったかがわかる。最近必要ではないかと感じているサンダルなど、もっとトルコで買っておくべきだったと少し後悔した。

「差別」
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ピデを食べた後、私は近頃インターネットのチェックをしていなかったので、インターネットができる場所を探した。街の人に聞くと、インターネットカフェがあると言っていたが、歩いてもなかなか見つからない。しばらくすると、「internet cafe」の看板はあったが、どうやら潰れているようである。街の人はこのことを言っていたのだろうか。

もうしばらく歩いていると、無線LANが無料で使えるカフェを発見した。これはいいと思い、私はちょっと奮発してHeinekenの缶ビールを3.5ユーロ(455円)で買い、自前のパソコンをインターネットに繋いでメールのチェックをした。

気がつくとカフェに入って3時間程経っていた。時間は9時。あたりはもう薄暗い。初めて来た土地に一人で夜中を歩きまわるのは危険である。私は急いでホテルに帰ることにした。

帰る時に、トイレに立ち寄る際、地元のイケイケの集団がお酒を飲んでいた。私が通るのを見ると、なんだか馬鹿にしたように笑っている。いきなり意味もなく馬鹿にされたように笑われるのも腹立たしいが、変なことになっては困るので、私は急いでトイレに駆け込んだ。そしてトイレから私が出てきた瞬間、また馬鹿にしたように笑われた。これはアジア人に対する差別ではないか。私は確信した。

白人社会の中にいると、時々そのようなことがある。特に私のような眼の細い男は目立つのだろう。これが、私が海外にいるときに一番不快に思う瞬間である。

「ホテルへの帰り道」
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私はこの新市街がとても治安の悪い場所だということに気づいた。私は先ほど少なくとも差別のようなものを受けたのだ。特にアジア人の少ないこの島では、私はとても目立つだろう。そう思い、私は駆け足でホテルへ向かった。

新市街を抜け出し、旧市街である遺跡の街についた。旧市街に入ると、そこには治安の悪そうな雰囲気は全くなく、多くの観光客で賑わっていた。

私はひとまず安心し、ゆっくり歩き始めた。新市街と旧市街を隔てる城壁を抜けただけで、雰囲気がここまで違うのかと驚いたものだ。

「ホテルの英国人」
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ホテルに帰ると、一人英国人の旅行者が同じドミトリーに泊っていた。スキンヘッドでごつい体をし、とても鈍った英語を話してくる。聞くと、昔軍隊にいてアフガニスタンにもいったことがあるという強者だった。いかにもという風貌である。

私はイギリスにも行く予定なので、たくさんのイギリスの観光スポットを紹介してもらった。
「マンチェスターに住む人々は、女8人男2人の割合だよ。」
本当だろうか。なんだか盛って話す英国人のようだ。

彼はキリスト教徒であり、ここロドス島の教会に訪れたかどうか何度も尋ね、
「聖書を読みなさい。」
と繰り返してくる。宗教はどんなものを信じていてもその人の自由だし、多様性があったほうが良いと思うが、強制するのはどうかと思う。時々聖書を読まない人をまるで変人のような眼で見る人もいる。私はそのような人にはあまり近づきたくない。

さらに、この英国人、私の言えたことではないが、とてもいびきが大きいのである。暑さこの部屋の酷さに加え、このいびきの大きさ。当然、あまり眠ることができなかった。

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2009年7月9日木曜日

7月7日 トルコ(8):パムッカレ 「真夏の雪景色:パムッカレ」

パムッカレ

「バス到着」
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バスは早朝5時に到着。イスタンブールからカッパドキアに来た時よりも移動時間は短い。荷物を出すと、ツアー会社の人が現れ、バンに乗り換えるように
言われる。デイビットとダイアナも同じツアーのようだ。朝早いので皆眠そうである。

バンはとてつもないスピードでホテルに向かう。途中、急な坂に差し掛かる時に宙に浮いた程。このとてつもないスピードで、私の眼は完全に覚めてしまった。

「ホテル到着」
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ホテルに到着した。しかし、なぜかホテルのドアは閉まって
いる。ツアー会社の人がドアをたたくと、ホテルの従業員が現れた。ツアー会社の人は、ホテルを閉めていたことに怒っている様子だ。

さらに、ホテルの部屋ですぐに休むことができると思っていたが、どうやら今ホテルの部屋は一杯なのだと言う。このツアー会社、そしてホテルは大丈夫なのか。私達はとりあえずホテルのロビーで寝ることになった。

1時間後、ツアー会社の人が別のホテルを手配したようだ。私とデイビットの二人は、別のホテル「」へ移動した。このホテル、プールもあるし、部屋はドーム(共同部屋)を頼んでいたのにも関わらず個室である。この旅行、初めての個室だ。エアコンもきちんと動くし、部屋にはシャワーやトイレも付いている。見た目も良い。バックパッカ―の私がこんなホテルに泊って良いのかと思ってしまう。

パムッカレのホテル Traverten otel
部屋を用意するのに少し時間がかかるというので、私
とデイビットは先に朝食をとることにした。レストランはホテルの屋上にあり、ビュッフェでトマト、キュウリ、オリーブなどたくさんの野菜が並ぶ。私はお腹が空いていたので、3皿分平らげた。食事を終えると、ホテルの従業員は私が食事を終えるのを待っていたかのように私のところへやってきて、
「部屋の準備が整ったので、こちらへどうぞ。」
と言ってきた。きちんとしたホテルのようだ。

部屋に入って、私はベットに倒れた。一人で泊まるのに、部屋にはベットが二つ、それも一つはダブルベットである。私は迷わずダブルベットを選び、そこでぐっすり寝た。バスの中であまり寝れなかったので疲れがひどく溜まっていたのだ。ツアー開始は11時30分。それまでまだ3時間くらい時間があった。

「パムッカレツアー開始」
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11時30分、ホテルの従業員がノックして私を起こしてくれた。少し早く起きてツアーの準備をしようと思っていたのだが、疲れが溜まっていたので、完全に熟睡してしまった。私は急いでホテルのロビーに向かったが、そこには聖書を読むデイビットがいるだけだった。どうやらツアーのバスはまだ来ないようだ。私は再び部屋に戻り、ツアーのために身支度をした。

午後12時にバスはホテルに到着し、ツアーは開始した。今回のツアーガイドはいやに命令口調のガイドである。ツアーガイドの口調を聞き、デイビットもなんだか微妙な顔をしていた。

「ランチタイム」
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ツアー開始直後、すでにお昼時だったのでいきなりランチタイムだ。

ランチは私の好きなビュッフェ。いつもよりたくさんの種類の料理がならんでいる。チキンやビーフ、そしてポテトや煮豆、サラダは10種類ほど用意され、デザートも豊富だった。

私はお腹が空いていたのでたくさん皿に盛ったのだが、どうも食欲がいつもより湧かない。まだ少し疲れがたまっていたのだ。

私とデイビットは、南アフリカ人のカップルと一緒に食べることになった。南アフリカ人の彼らは世界の様々な国に行き、仕事して住んでいるようである。オーストラリアや、ニュージーランド、イギリスなど様々だ。私もそんな生活をしてみたいものだ。

「パムッカレへ」
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食事を終えた後に向かったのは、パムッカレ。パムッカレは、湧き出てくる地下水に含まれる石灰からできた真白な石灰棚な広がる美しい場所。石灰棚には地下水が流れ、水が溜まり、青く色づく。白と青のコントラストがとても奇麗で、まさに自然の奇跡だ。

石灰棚に溜まる水へは水着を着て入ることができたが、私はあいにくホテルに水着を置いてきたので入ることができなかった。

今回のツアーには日本人がいなかったが、中国人や韓国人がいた。韓国人の女性に話しかけられ、話してみると、彼女も一人旅をしていて、イタリアからギリシャに入り、トルコに来たのだとか。私と全く逆のルートを行っている。韓国ではファッションデザイナーをしており、年に2,3回日本にも訪れるという。ただ、彼女いわく、韓国では日本の新型インフルエンザのニュースが度々報道されているので、今は行く人が少ないそうだ。日本のインフルエンザ事情は海外でも有名なようだ。

バムッカレは石灰棚だけではない。石灰棚の近くに広がる遺跡もまた良かった。高校でやった世界史で習ったポリス(都市)が昔この場所にあったそうだ。遺跡には、大きなマーケットの跡、劇場跡、浴場やトイレの跡などが広がる。まだトルコなのにすでにギリシャに来たような気分にさせられた。パムッカレはギリシャに近いので、きっと昔ギリシャ人はこの土地に住んでいたのだろう。ガイドの話を100%理解できない私は、その場凌ぎとして、想像することによって欠けている部分を補うのである。そして後でガイドブックやインターネットで想像が正しいか正しくないか確認するのだ。

ツアーに参加したころから疲れがどうしても癒えない。どうやら私は風邪をひいているようだ。昨日全く寝れず、疲れが溜まったことが大きいようだ。しかし、ここでダウンしたらせっかくのパムッカレツアーが台無しになってしまう。そう思い、私は耐えた。

ツアー最後の1時間は自由行動だ。私は博物館(入館料:3TL(210円))に入り時間を潰した。そしてまだ時間があったのでデイビットと日陰で世間話をしていた。

集合時間の4時になって、私たちはバスに戻った。しかし、デイビットはバスに戻ってすぐに再びバスを出た。約25分後、デイビットはダイアナと一緒にやってきた。どうやらダイアナも私と同じく調子が悪いらしく、デイビットは彼女の看病をしていたのだ。優しいデイビットである。

「ホテル到着」
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バスはホテルに到着し、私のみを降ろした。デイビットとダイアナは今日私とは違う場所エフェスに移動する。長い間一緒にいたので、別れるのは少し寂しい。また会えるといいな。

ホテルに到着し、レセプションの人は私の事を覚えていなかったらしく、私が
「103号室の鍵を下さい。」
と言っても戸惑っているのだ。朝会ったばかりなのに。英語が話せる他の従業員を呼んでもらい、やっと鍵をもらうことができた。
「ごめんなさい、忘れていたよ。」
おいおい。せっかく良いホテルで気に入っていたのに残念である。

部屋に入って、私は再びすぐにベットに横たわった。私は本当に風邪をひいているようだ。体はだるく、息も熱い。ホテルにあるプールに入ってからだをリフレッシュさせようと思っていたが、この体では無理だ。私は持参したパブロンを飲んで、じっくり体を休めることにした。


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7月6日 トルコ(7):カッパドキア 「カッパドキアツアー2日目」

「起床」
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今日でこのノーマッドホテルともお別れ。長い間様々なところを旅していると、たくさんの土地を知ることができ、たくさんの人々と出会うことができるが、その分別れも早い。時々それが寂しく感じる。

5種類の朝食から、今回は「オムレット」を頼んだ。オムレットは、皿の真ん中に薄く広がる卵焼きだ。皿のサイドには、トマトやキュウリが並べられる。パンは昨日と同じように食べ放題。お腹を満たすためにパンばかり食べていた。

「ツアーバス到着」
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9時30分、バスは予定通り到着した。昨日のバスより小さい。バスの運転手が私の名前を確認し、荷物を持ってくれた。彼は日本語で、
「こんにちは。」
と挨拶し、
「今日はとてもいい天気ですね。」
などと、慣れた口調で日本語を話す陽気なおじさんだった。

小さなバスが進み、10分ほどでストップした。どうやらバスの乗り換えをするようだ。見ると、乗り換え先は昨日と同じバスで、同じツアーガイドがいた。昨日席の隣にいたデイビット、そして日本のインターナショナル・スクールに勤めるオーストラリア人も同じバスに乗っていた。

どうやら今日も日本人が一人乗っているようだ。

今日は待ちに待った地下都市に行く日。とても楽しみだ。

「パノラマビュー」
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まず始めに訪れたのが、カッパドキアのパノラマビュー。これは昨日と同じだ。今日からツアーに参加した人もいるため、ガイドは昨日と同じ説明を始めた。私は昨日も説明を聞いたので、ガイドから離れ、写真を撮りながらパノラマビューを楽しんだ。

「ローズバレーハイキング」
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パノラマ―ビューを鑑賞した後、私たちはローズバレーをハイキングした。

まず始めに訪れたのは、果物畑。ここカッパドキアには広大な土地が広がるので、フルーツや野菜を作るのが盛んだ。主な生産物はぶどうやジャガイモ。ぶどうはワインや、トルコの酒ラクに使われる。他にもカボチャや、アプリコットなどが並ぶ。

ガイドが木に実る果物をもぎ取って食べた。その木にある果物は食べてもよさそうだ。色がとても青いアプリコットだ。私ももぎ取って食べた。とても酸っぱかった。まだ熟していないのだろう。

ツアーに参加するオーストラリア人のおばさんが、果物畑で売られているナッツを買い、皆に分け、私にも渡してくれた。とても良い感じのおばさんだ。

ローズバレーの探索をしながら、私は一緒にツアーに参加した日本人に話しかけてみた。

彼女の名前はノリコ。ノリコさんも、私と同じようにヨーロッパを3か月間程旅行するそうだ。しかし、私は主にヨーロッパの西側に行く予定だが、ノリコさんは東側へ行くのだという。

私たちはイスタンブールの話をした。私はあまりイスタンブールが好きではなかったが、旅で出会う多くの旅行者は、
「イスタンブールは良い街だ。」
と言う。しかし、私は以前も述べたがあまりイスタンブールが好きではなかった。こんな風に思うのは私だけかと思ったが、ノリコさんも同じく、
「土地はいいけど、人がねぇ。」
と言う。そうなのだ。イスタンブールの人はすべてではないが、正直あまり信頼できる人がない。そして私は、アラジャとバリスの話をすると、
「そうそう、私も絨毯屋に優しくいろいろ教えてもらったの。」
聞くところによると、ノリコさんも絨毯屋でお茶をご試走され、絨毯を勧められたそうだ。

後で聞くと、デイビットも同じ目に遭ったと言う。

どうやら、大多数のイスタンブールの絨毯屋は、観光客に優しくし、絨毯を勧めているようだ。私にイスタンブールを3日間案内してくれたバリスとアラジャも、私に絨毯を売るためにあそこまで優しくしていたんだろう。善意ではなかったのだ。

しかし、ノリコさんやデイビットは、絨毯を断った際に、絨毯屋はとても不機嫌な態度をとったというが、私の場合は、絨毯を断った後も態度が変わらなかったことを考えるとラッキーだったといえる。しかも3日間もイスタンブールをガイドしてくれたのだ。私の場合は良かったのだろう。

さらに、ノリコさんも、同じような日程のスケジュールで400ユーロ支払っていた。やはりこの値段はバックパッカ―でない普通の旅行者にとっては普通の値段なのだろうか。しかし、ノリコさんも自分と同じような貧乏旅行をしているようなので、この値段が貧乏旅行者にとっては高いことを知ったときちょっと悔しがっていた。

ローズバレーはとても良い場所だった。谷は地下水が湧き出るため、いつも湿っている。そして谷の真ん中には小さな小川が流れ、周りには木が生い茂る。そしてしばらく歩くと、今度は広大な大地にたくさんのおもしろい形をした岩がたくさん現れるのだ。見て飽きない風景である。

「ランチ」
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ローズバレーのハイキングを終えた後、私たちはバスに乗って、デイビットが泊まるホテルにて昼食をとった。昨日と同じビュッフェかと思って期待していたが、今回は違うようだ。しかし、ホテルの料理はとてもおいしいものだった。

まず出てきたのは、米のような形をしたパスタの入ったスープ、そして茄子とチキンをトマトスープで煮たものとバターライス、そしてサラダと煮豆が出てきた。最後に出てきた丸い形をしたデザートはとても甘ておいしいものだった。


「地下都市へ」
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そしてランチの後は、ついに待ちに待った地下都市ツアーである。

カッパドキアにある地下都市は地下4階から成るとても大きなもの。ここに何千人もの人が生活したというから驚きである。

中には、トイレやキッチン、ワインナリーなど、生活に必要なものがほぼ揃っている。地下深いため、地下都市の中はとても寒かった。

天井がとても低いので、
「ここに住んでいた人々はとても小さかったのか。」
とガイドに聞いたところ、天井が低いのは敵が攻めて来たときに、鎧や縦、槍を持ってこれないようにするためだという。背の高いデイビットはほとんど立つことができなかった。

いったいどれくらいの歳月をかけて昔の人々はこんな穴を掘ったのだろうか。考えるだけでもすごい。

「オニキス職人」
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次に訪れたのは、オニキス職人の工場だ。オニキスとは、真っ黒な石。悪いものを追い払うために古くから使われているそうだ。私たちの前に現れたオニキス職人は、オニキスではなく、大理石の塊を機械にかけて削り、瞬く間に卵の形に仕上げた。オニキスはショーで見せるには貴重すぎるからであろうか。素早く正確に大理石を削るその姿はまさに職人技である。

そして、オニキス職人の後はトルコ石の加工作業の見学だ。どうやらここは、オニキスに限らず様々なアクセサリー等を作っているようだ。一点の曇りもない真っ青なトルコ石はとてもきれいである。

ノリコさんは、
「誕生石だったら買ってもいいのになぁ。トルコ石は12月の誕生石なのよね。」
と言った。私の誕生日は12月1日、なんとトルコ石は私の誕生石だったのだ!そう聞くとと、急に欲しくなるトルコ石だが、あいにくトルコ石を買える程お金を持っていないので、私は諦めた。

「カッパドキアツアー終了」
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工場を見学し、カッパドキアツアーは終わりを告げた。バスは私を次の目的地であるパムッカレに行くバスが来るバス停へと連れて行き、そこで降ろした。デイビットとダイアナも同じバスなので一緒に降りた。出発までまだ2時間近くあったので、私達はバス停の近くにあるレストランへ行き、夕食をとることにした。

私は5TL(350円)のスパゲッティを頼んだのだが、まず出てきたのはサービスの巨大なナンである。サービスでこんな巨大なものがでてくるとはあっぱれだ。デイビットはベジタリアンらしく、皿にたくさんの野菜とライスが載ったものを、ダイアナはトルコのピザ、ピデを頼んでいた。

ダイアナは先も述べた通り、横浜インターナショナルスクールで英語の教師をしているのだが、その休みを利用して、世界中を回っているようだ。

アジアはタイやベトナム、カンボジアなどに行き、ヨーロッパもイタリア、スペイン、フランスなどたくさんの国を旅行しているのだという。横浜インターナショナルスクールでは、3か月の休みを取っても問題ないというからすごい。なんと良い労働環境なのだろうか。

日本では横浜の元町に住んでいるのだとか。とっても良い場所だという。とてもお気に入りなようだった。3児の母で、子どもたちはそれぞれ世界に散らばっているという。指輪をしていることから結婚しているのだろうが、夫とは一緒に旅行しないのだろうか。気になるところであるが、あえて触れなかった。

「バスの悪夢」
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バスは定刻より10分程遅れて到着した。まぁ日本でもそうだが、バスが定刻に着くことはほとんどない。

バスは新しく、とても乗り心地が良さそうだ。デイビットと私は、バスの一番後ろに座ったが、座席指定であるらしく、バスの車掌に席の移動を告げられた。そして移動先の座席の隣には、とても大きな体である巨漢が座っていたのだ。

彼の体は、私の席の5分の1程を占めていた。せっかく乗り心地の良さそうなバスなのに運がない。深く座ると、どうしても彼の体に触れてしまい、とても暑い。話してみると、彼はカナダ人で、石炭を運ぶ貨物列車の運転手をやっているのだという。彼は話す時に、時々口をブルブル振るわせる。今にも唾が飛んできそうな様である。私は彼と話すことをやめた。

私はどこでもすぐに寝られるのだが、この日ばかりは全く寝れなかった。うまく座ることができないからである。さらに、車内のクーラーは少し寒い家に、となりの男からくる熱気はとても暑い。こんな状況ではさすがの私も寝ることが困難であった。

まさに悪夢である。

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7月5日 トルコ(6):カッパドキア 「カッパドキアツアー」

「起床」
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昨日寝る前にコーヒーを飲んだせいであまり寝付けなかったが、スプリングの入っているふわふわしたベットはとても気持ち良かった。

8時半に起き、ツアーに出かける準備をして朝食を取るため、食堂に向かった。

食事は5つの種類から選ぶことができる。
「トルコ風の朝食」、「フランス風の朝食」、「オムレツ」。「Menemen(卵とトマトを混ぜて焼いたもの)、「コンフレーク」だ。私はせっかくなので迷わずトルコ風の朝食を頼んだ。

トルコ風の朝食はパンが主食。チョコレート、はちみつ、チェリー、バターのペーストと、トマト、キュウリ、オリーブ、チーズ、ゆで卵が出され、それと一緒に食べるようだ。パンは基本的に食べ放題。大食いの私は、バスケットに入っているパンを全て平らげた。

「ツアーバスの到着」
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旅行会社の予定表によるとバスの到着時刻は9時だったが、バスは9時30分に到着した。これくらいの遅れはこの国では普通なのだろう。

バスは中型で、席はほぼ満席。オーストラリア人、アメリカ人、コロンビア人、トルコ人と、私を含めた日本人が4人乗っていた。

私はバスの一番後ろに座った。隣にいたのはアメリカ人のディビット。聞くところによると、彼は弁護士を経て現在キリスト教会の宣教師をやって世界を回っているそうだ。弁護士の仕事をしているときに、たくさんの人々に刑を与えてしまったのでその罪滅ぼしでやっているのだとか。キリスト教徒の私にはない発想だが、なんだかすごそうな人である。彼はイスタンブールから黒海あたりを友人とドライブしていたが、カッパドキアに来てから友人と別れ、このツアーに参加している。

「カッパドキアのパノラマビュー」
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バスは出発して15分程で最初のスポットに到着した。

最初のスポットは、丘の上からカッパドキアのパノラマビューを見渡すツアー。良い眺めを見ながら、ガイドはカッパドキアの説明をした。

私はそこまで英語力がないので、100%は理解できなかったが、いくつもの火山から出てくる灰が積もって、様々な色の地層があるというようなことを言っているようだった。しかし、私はそんな話より、この地形のおもしろさ事態にとても魅力を感じる。

「カッパドキアウォーキングツアー」
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パノラマビュースポットを離れ、私たちはウォーキングスポットに出向いた。そこにある岩はとてもおもしろい形をしている。よく見ると、鷲のような形をしていたり、ゴリラのような形をしていたり、スヌーピーのような形をしていたりして、見ていて飽きが来ない。

先出のディビットは、サンダルで来ていた。滑りやすい急な坂道をサンダルで歩くのはとても辛そうだ。
「ホテルの人がサンダルでもいいって言ってたんだよ。」
かわいそうなディビットである。

「ツアーの日本人」
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今回は旅行会社の人が、
「日本人のガイドは高いから、英語のガイドにしたらいい。」
と言っていたので、日本人はいないと思っていたが、実際には私を含め、日本人4人が同行していた。

一人は、オランダで日系メーカーの駐在員を務める男性。4日間トルコを旅するそうだ。旅の経験も豊富で、様々なことを教えてくれた。

もう二人は女性。一人は、アメリカの大学院で社会福祉学を勉強しているのだとか。スウェーデンで学会の発表があり、その帰りにトルコに旅行してきているのだという。

日本人が4人もいたわけだが、いつも日本人同士で日本語で話していても感じが悪いので、私はなるべく離れて行動するよう意識した。しかし、やはり日本語が一番話しやすいので結構話してしまう。あまり良くなかったかもしれない。

「トルコの陶磁器職人」
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次に向かったのが、トルコの陶磁器職人ショーだ。カッパドキアの土がいいからここで作っているのか、ここカッパドキアのこの陶磁器は日本でも売られている程有名なようだ。

陶磁器職人の店に入ると、代々陶磁器を作っている、いかにも職人という男が現れた。肌の色も茶色いのに、エプロンやズボンに土が被って茶色く染まっているので、もう全身が茶色だった。もう6代も続いているというからすごい。

彼は足で台を回転させ、土の塊から見事にお茶を入れるポットを造り上げた。その作り方は日本の陶磁器の作り方とそっくり。トルコの陶磁器も日本の陶磁器も、起源は同じなのだろうか。

職人のショーを見た後、私たちは絵付けをする職人が仕事をする部屋に入れられた。絵付けをする職人をこんなに間近で見たのは初めてだったので、おもしろい。

そして次に入れられたのが、トルコの陶磁器ショップだ。何百もの陶磁器が並ぶその様はまるで博物館のようだった。一番高い陶磁器は何かと聞くと、80万円する大きなワイン入れがそうだと言う。ワイン入れはとても巨大で、持ち上げるのに一苦労しそうだ。鑑賞用としてはよさそうだが、一体誰がこの大きな器にワインを入れるのだろうか。その姿をぜひ見てみたいものである。

「満腹のビュッフェ・ランチ」
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陶磁器職人の店を離れて、おまちかねのランチタイムとなった。真白なテーブルクロスがひかれたテーブルが並び、席ひとつひとつにグラスと、形どられたナプキンが置かれている。見た目が豪華だ。私がここでランチを食べて良いのだろうか。

そこには主菜はライスからパスタ、チキンにビーフ、サラダは10種類程が並び、私の食欲をそそる。この旅を始めて初めてのビュッフェだ。私はこれからこんなものは二度と食べられないどろうと思い、大きめのプレート二枚にあらゆる料理をのせた。

ランチの時には、先出の日本人会社員の方と主に話していた。この方はエジプトにも行ったことがあるというので、話を聞いた。私はイスタンブールの客引きにあまりいい気持ちになれなかったが、エジプトの客引きは世界一だと彼はいう。さらに、アジアにいけばそんな客引きはごまんといるという。世界は広い。

会社員の方のツアーは、航空券も入れて4日間で500ユーロだという。私のは6日間で400ユーロ。会社員の方の基準で考えれば、ツアーの値段は少し安いようである。いい食事にいいホテルに泊っているのならばこの値段は妥当なのだろう。しかし、私にとっては贅沢だ。

ツアーには、スペイン人もいたので、スペインのどのあたりが良い場所か聞いてみた。やはりマドリッドやバルセロナが良いという。ただ、スリが多いというので、気をつけなければならない。スペインは治安が悪いという。特に都市部はそうだ。気をつけなければならない。

「オープン・エアー博物館」
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ランチを終え、満腹で満足となった私たちが次に向かったのが、私の滞在するギョレメ近くにある、「ギョレメ・オープン・エアー博物館」である。

ここには、洞窟の中にたくさんの教会があった。キリスト教の知識がないし、英語もそこまでのレベルである私は、ガイドの話をあまり理解することができなかった。しかし、日本の学校で英語教師をやっているというオーストラリア人のダイアナが、とても丁寧に私に教えてくれたのだ。さすがは教師である。感謝でいっぱいだ。

たくさんの教会があったのだが、ここらにある教会はトルコがイスラム国家になった時にキリスト教徒たちがこの場所に逃げ、生活するために建てられたものだ。なので目立たない洞窟にたくさん教会や家が作られている。

洞窟教会に描かれているフレスコ画は、10~12世紀に描かれたもの。すでに風化が進み、イエス・キリストの顔はもう消えている。

宗教というものはすごい。迫害を受けてまで洞窟を造り、信仰を続けるそのパワーと、宗教から生まれる数々の美しい芸術にはとても魅力を感じる。宗教がなければ、現代の美術は今ほど大成されたものではないだろう。たくさんのフレスコ画を見て、私はガイドの説明を聞かずにこんなことを考えていた。

「ツアー1日目の終わり」
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オープン・エアー博物館を出て、カッパドキアの大きな岩をくりぬいて作った大きな城とラクダを見た後、バスはノーマッドホテルへと向かい、私を届けてくれた。時間は17時20分。ツアーは一日に回る場所としてとても良かったように思う。

ツアーは2日間続く。ツアーの日本人は今日が2日目らしく、ここでお別れだ。少し残念。彼らいわく、もう一日は地下都市を探索するのだとか。明日がとても楽しみだ。

「停電」
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夜、私がホテルの食堂で本を読んでいたとき、停電が起きた。ホテルの人に聞くと、停電は結構頻繁に起こるのだという。
「30分くらいで直るよ。」

そういえば、日本の送電システムは世界で最たる品質を持っていると聞いたことがある。日本では台風などが起こらない限り、停電はほぼない。

しかし、海外では多くの国で日常茶飯事として起こるものだろうか。トルコではそのようだった。

街全ての明かりが消えているので、辺りは真っ暗。光といえば、たまに通る車のヘッドライトくらいである。しかしその日は偶然にも満月だった。月の光は意外にも、とても明るかった。

7月4日 トルコ(5):カッパドキア 「別の顔」

「ノーマッドホテル到着」
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イスタンブールからカッパドキア近くにある町ギョレメに約12時間バスの乗った。トルコの道はあまりうまく舗装されていないところが多いのか、バスは尽く揺れた。

一度バスを乗り換えた後、午前9時頃カッパドキア近くのギョレメに着いた。そして重たい荷物をおろすため、旅行会社に指定されたホテルを人伝いに探した。私の滞在するホテル、「ノーマッドホテル」はバスていのすぐ近くにあった。

ノーマッドホテルは岩をくり抜いて作ったホテルだった。バックパッカ―の私にとっては少し豪華なホテルかもしれない。白い岩に囲まれたホテルは、とても良い雰囲気だった。

ホテルに着くと、ホテルの人々が朝食をとっていた。どの料理もとてもおいしそうである。部屋を案内されると、イスタンブールのホテルと同じドーム(共同部屋)だが、ベットはスプリングがきいていてとても気持ちの良いものだった。部屋はまさに岩をくり抜いたもの。外にいるより少し涼しい。

トルコの東部は、イランやシリアが近いので少し治安が悪いと聞いていたが、宿の主人に聞くと、
「治安は悪くない」
という。周りを見ると、キャンプ場もあちこちにあるので、テントを使ってキャンプをしても良かったかもしれない。

カッパドキアツアーは明日だ。今日はフリーなので、治安は悪くないことを聞いた私は、すぐに外に出かけて歩き始めた。


「朝食」
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カッパドキアは広い。広大な大地にたくさんの歴史的建造物がある。私は有名どころはツアーに任せるとして、ホテルがある町ギョレメ周辺を歩きまわることにした。

ギョレメの物価は、見たところイスタンブールの観光地並みの高さだ。きっとこの町ギョレメは、観光地として栄えているところだからだろう。どのレストランを覗いても、10TL(700円)出さなければ満足に食事できそうになかった。

私は仕方ないので、近くのスーパーで、カップケーキ二つ(0.5LT×2:70円)と、バナナ(1TL:70円)を購入して、朝食とした。

「カッパドキア探索」
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朝食を食べ、私はギョレメを出発し、ホテルでもらった地図をもとに何もない場所を一人で歩いた。周りには何もない。誰もいない。広大な草原や小麦畑が広がるだけだ。そんなところをただ一人で歩いた。

しばらくすると、小屋が見えてきた。なんとそこから、放し飼いの大きな犬が、私に向かって走ってくるではないか。やばい・・・そう思ったところ、ちょうどその犬の飼い主らしき人物がやってきて、犬を止めた。助かった・・・どうやら、そこは牧場の入口で、犬はそこの番犬のようだ。

私は別の方角を進み、歩き続けた。しばらくすると、今度は馬の群れがいるではないか。今度は馬か。こいつらに襲われたら犬ごときではすまい。そうもい、恐る恐るその場を歩いた。しかし、良く見たら、馬には手綱がついていた。馬はそこからある程度の範囲しか動けないようようになっている。私は人安心してその場を歩いた。

しばらくして、Cavusirという町に着いた。そこの近くに、岩をくり抜いて作ってある家々がたくさんあった。まさにカッパドキアである。この町の近くには、ローズバレーという岩が広がる。ホテルにあるガイドブックに、周りには何もないのでツアーで行った方が良いと書いてあったが、問題なく一人で行ける。

レッドロックのふもとには、岩をくり抜いた町の遺跡があり、そこから上は大きな岩ローズバレーが広がる。ローズバレーはとても大きかったが、どうせならこのローズバレーの一番上に行って良い景色を眺めたいと思い、私はローズバレーのてっぺんを目指し、登っていった。

最初はなだらかな坂だが、だんだん坂が急になっていく。ここら辺の岩はもろいので、あまり急な坂だと危険であろう。しかし、てっぺんまで行くと決めた私はとにかく登った。しばらくして、坂が崖となり、登ることができなくなった。崖はたった2メートルくらいである。これくらいならいけるかもしれない。そう思ったが、もしも私が落ちても誰も気づいてくれないし、助けてくれない。なにせ、そこの辺りには人影がまったくなかったからだ。なので、私は諦めることにした。残念である。

しかし、すでに頂上近くまで登っていた私はとても眺めの良い景色を見渡すことができた。あたり一面に広がるぼこぼことした岩が連なる広大な景色は、とても魅力的だった。そこまで登ったかいがあったものだ。

「昼食」
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時計を見ると、すでに12時を回っている。お腹がすいてきたので私は急いで下に降り、レストランを探した。

しかし、やはり観光客用の高いレストランしか見当たらない。そこで私は、ここの地域の住民が行きそうなお店を探し、チェリージュース(1TL:70円)、アプリコット5つ(1kg3LT:私は5つ買い、0.50LTだった)を購入した。どの地域にも、地域の住民用の安いスーパーやお店があるものだ。そういった場所を見つけ、その住民が食べるものを同じように食べるのも、旅の醍醐味のひとつである。

私は朝食を済ませ、再び私の泊まる町ギョレメに歩いて引き返した。歩いて30分で到着する。この日は本当に暑い。そこで私は水(1.5リットル, 1TL:70円)を購入し、のどを潤した。

「壊れた靴」
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そしてホテルに向かってあるいていると、ベリっという音がした。見てみると、靴の裏側のゴムがはがれてしまっていた。イスタンブールでも、カッパドキアでも、私はあまり交通機関を使うことなく歩いて移動していた。たくさん歩いたのだ。早くも靴に限界が来たようだ。

靴は父から貰ったものだ。なかなか履きやすく、毎日長い間歩くことができるのは、この靴のおかげだった。しかし、カッパドキアの急な坂には耐えられなかったようだ。私はできることならこの靴を直して再び使いたいと思い、靴の修理屋を探した。しかし町の人に聞くと、私のホテルがあるギョレメには、靴の修理屋はないという。近くにこの地方で一番大きな町、ネヴシェヒルがある。この町に行けばなんとかなるかもしれない。そう思い、私はネヴシェヒルに行こうと決めた。

「洗濯」
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その前に、私はホテルに帰って洗濯をしなければならなかった。そろそろ洗濯をしなければ、着るものがなくなってしまう。ホテルの洗濯機を使うと、10TL(700円)もしてしまう。イスタンブールで止まっていたChillOut Hostelでも同じ値段だった。どうやらこの値段が洗濯の相場らしい。

私にとってこの値段は高い。なので、自分で洗濯することにした。シャワーの近くにある洗面台に水をため、日本から持ってきた小分けの洗剤を入れる。そこに汚くなった衣類を入れて、すすいだ。外には洗濯物を干すスペースがちょうどあったので、そこに干した。ここカッパドキアの気温と乾燥した気候ならばすぐに乾くだろう。

「ネヴシェヒルへ」
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洗濯を終えた私は、靴を直すためこの地方最大の都市ネヴシェヒルに向かった。

ネヴシェヒルへはバスで30分、1.75TL(122.5円)で行ける。トルコの公共交通機関は安い。日本もこれくらい安ければいいのに。

ネヴシェヒルは大きな町。私の住むギョレメは観光街だが、この町は庶民のための街なようだ。物価はとても安い。ラム(羊肉)が入ったサンドイッチがなんと1TL(70円)で売っている。お腹が空いていたので、すぐにでも食べたい気分にさせられたが、夜遅くなってはギョレメに帰れなくなるので、まず靴の修理屋を探すことを優先した。

街の人に靴の修理屋を聞くが、街のほとんどの人が英語を話せない。カッパドキアに近い都市だというのに観光客は全くこの町に来ないせいか、アジア人である私をとても珍しい目で見てくる。この地方の人々はとても人が良く、親切だ。道を聞いても親切に答えてくれるし、イスタンブールの露天商が、観光客相手にボルようなことはない。この町はイスタンブールとは別の顔を持つ。私はそういった意味でこの街を気に入った。

「修理屋のおじいさん」
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あまり英語が得意でない街の人々の案内を数回聞き、やっとのことで靴の修理屋を見つけた。その店は修理を行うためだけに作られたような小ささだ。店の主人はいかにも職人らしいおじいさん。

英語が全く話せないので、近くにいる青年に通訳してもらった。おじいさんいわく、20TL(1400円)というが、青年いわく、10TL(700円)でいいという。どうやらこのおじいさんは私が日本人だからとぼっているようだ。青年は親切にも私に正規の値段を教えてくれた。

修理には時間がかかるというので、私は夕食をとるために街を歩いた。

「街の人々」
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私は先にも述べたとおり、この街ネヴシェヒルの人々が好きだ。皆親切だし、見ず知らずの旅人である私にいつも笑顔で接してくれる。

まず私は、先に発見した羊の肉を挟んだ1TL(70円)サンドイッチを購入した。ボリュームがあり、とてもおいしい。隣にもおいしそうなクレープを焼く店があったので行くことにした。一枚1.5TL(105円)でポテトを主とした具の入ったクレープだ。人気があるのか、たくさんの人がクレープや併せて売られている焼き菓子を買いに来ていた。アジア人がとても珍しいらしく、細い目をする私を見るなり、目の横を引っ張って目を細くし、
「なんて細い目をしているんだ。」
といわんばかりの素振りをしてくる。クレープを作っている写真を撮りたいと言ったら快く応じてくれた。

その近くにあるスーパーに入り、フルーツ売り場を眺めていると、店の人が私にフルーツの買い方を丁寧に教えてくれる。トルコは、野菜や果物が量り売りである。フルーツを袋に入れて重さを量る機械に置き、そこから出てくるバーコードを袋に貼ってレジに持っていく。チェリーが1kg3TL(210円)、マスカットが1kg1.50TL(105円)で売られていた。私はチェリーを0.30TL(21円分)、マスカットを0.18TL(12.6円)分しか買わなかった。店の人はそれだけしか買わないのかと言わんばかりの表情である。しかし、独り身の私にとってはそれで十分な量だった。

この街で手に入れた食べ物はどれもおいしく、とても安かった。お店の人も親切で感じが良く、とても良い街だ。

「再び靴の修理屋へ」
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靴の修理を頼んで一時間が経ったので、私は修理屋へ戻った。おじいさんは私の靴を既に直し終え、他の靴の修理をしていた。

おじいさんは私から20TL(1400円)受け取ろうとしていたので、私が10TL(700円)払うと、少し不満げだった。しかし、修理のできはとても良い。剥がれた靴底を丁寧に手で縫ってくれていた。私がとても感謝すると、おじいさんの不満げだった顔は一転して笑顔になった。

「どうだ、もう靴底は剥がれ落ちないだろ。」

直した靴を手にとって私に見せてくる。とてもいい仕事をしてもらった。ありがとう、おじいさん。

「トルコの結婚式」
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ネヴシェヒルからギョレメのノーマッドホテルに戻り、ホテルの食堂でこの日記を書いていた。すると、外からとても賑やかな歌が流れてくる。ホテルの人にこの歌はどこからと聞くと、
「近くで結婚式をやっているんだよ。トルコの結婚式は3日間通して皆でダンスパーティして結婚をお祝いするんだよ。」
彼によると、これはイスラム式の結婚式なようだ。今からその結婚式に行くというので、私もついていくことにした。

そこでは、たくさんの人が円をつくり、思うがままにダンスしている。手を振り腰を振り、激しく踊って楽しんでいる。音楽はミュージシャンを招いての生演奏だ。リズム感のある音楽が、ダンスを盛り上げる。

一緒にどうかと誘われたので、私もダンスに参加することにした。私にこうだ、こう踊るんだと、私の前に来て踊る。私も見様見真似で踊る。トルコのお酒ラクやワイン、つまみとしてたくさんのナッツも振舞われる。

とても楽しい夜だった。

「旅を始めて一週間」
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今日で1週間が経過した。あっという間の1週間だ。私はあと4日間トルコに滞在する予定だ。少しトルコに滞在しすぎかもしれないが、長くいればいる程トルコを知ることができ、とても楽しい。しかし先を急がねばならない。ロンドンまでの道のりはまだ長い。

7月3日 トルコ(4):イスタンブール 「最後のイスタンブール」

「ホテル出発」
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ホテルの昼食を済ませ、3日間お世話になったChillOut Hostelを出発した。このChillOut Hostel、雰囲気は怪しかったが、そんなに悪くはなかった。

「旅行会社へ」
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ホテルを出て向かったのが、旅行会社。旅行会社に重たいザックをおいた。

今日の夜19時旅行会社に集合し、夜行バスでカッパドキアへ出発する。それまで時間があった。私はイスタンブールをぶらぶら歩くことにした。

ちょうど昼だったのでなにか食べるものはないかと探していたところ、長細いピザのようなものを発見した。店の人に値段を聞いて、
「(大きかったので)半分で2TLにするよ。」
と言ったので注文した。

店のおじさんに聞くと、この食べ物はピデといってトルコのピザだという。私が食べたピデは玉ねぎがたくさんのったもの。ピザからチーズをなくして玉ねぎの炒め物をのせたような感じで、そこそこいけた。ただ、比べていいのかわからないが、イタリアの(普通の)ピザの方が私は好きである。

「アジア側へ」
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まだお昼で時間があったので、私はまだあまり行ったことのないイスタンブールのアジア側に行くことにした。

船乗り場に行くと、次の船の行先は「kadikoy」と掲示されている。行ったことのない場所だ。そして私は次にくる船に乗ることにした。

船からの眺めはまた格別だった。船はイスタンブールのボスフォラス海峡を少し出る。すると、エーゲ海の水平線が見えてくる。これからあの向こうのギリシャにも行くんだなと思うとわくわくした。

「kadikoy」に到着し、船乗り場の近くに大きな駅が見えた。伝統のある風格、そしてその巨大さに魅かれて、特に用があるわけではにが、その駅に向かった。

駅のチケット売り場に行くと、「テヘラン」行電車の時刻表があった。テヘランはご存じのとおりイランの首都。時刻表を見ると、およそ2日間で着くそうだ。駅員に聞いてみると、運賃は105TL(7350円。アジアへは、10月の内定式の後行く予定だが、この時刻表を見て今すぐにでもアジアに行ってみたい気持ちが強まった。私はヨーロッパよりアジアの方が興味がある。だが、やはりお楽しみは後に取っておくものだ。10月以降を楽しみに待つことにする。

「アメリカから来た夫婦」
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再びフェリーでヨーロッパ側に戻り、私は観光スポットの裏側にある通りを歩いた。レストランを探すためである。観光スポット近くにあるレストランは基本的に高いからだ。

何か安くてお腹がいっぱいになりそうなところはないかと歩いていると、おいしそうなチーズ料理の写真と3.5TL(245円)という安い値段が書かれている看板があったのでその店に入った。私はチーズが大好物なのだ。

出てきたのはチーズと卵を混ぜて焼いたようなもの。それに大きなパンが付いてくるので、私のお腹にはもってこいである。

しばらくこの料理を食べていると、中年の白人とアジア人の夫婦がやってきて、隣のテーブルに腰を降ろした。海外にいると、同じ人種であるせいか、なんとなくアジア人には親近感が湧いてくる。彼らが英語を話しているのを聞き、同じ旅行者だとわかって話しかけてみた。

聞くところによると、かれらはワシントンDCに住むアメリカ人で、親戚がイスタンブールにいるので20日間旅行しているのだという。アメリカのどの場所が一番良いかと聞いたら真先に、
「もちろん、ワシントンDCよ。」
と奥さんが答えた。

夫の方は昔アメリカ空軍の兵士だったそうで、世界のあちらこちらに住んでいたそうだ。日本にもいたのだとか。私はイスラエルに行こうかまだ迷っていたので、イスラエルについて聞くと、
「おじさんもアメリカ軍兵士でね。彼がイスラエルにいたから、私たちもつい2週間前に行ったばかりなのよ。治安は良かったわ。」

私は自分が行きたいので、様々な旅行者やトルコ人にイスラエルについて情報を集めているが、毎回治安が悪いという返事は返ってこない。イスラエルに行くかどうかは、その治安が心配で行こうか行かないか考えていたが、様々な人の話を聞いくと、どうやら問題ないみたいだ。私はイスラエルに行きたいという気持ちが強くなってきた。

今まで苦労して子供を育ててきたのだろう奥さんは、旅の話を聞いて私の事を親のように心配してくれた。
「親とは電話してるの?連絡を取ってるの?」
「心配かけちゃだめよ。」
日本もアメリカも、親と子の関係は同じであるようだ。

奥さんが私に聞いてきた。
「トルコは好き?」
「私はあまり好きじゃないわ。」
私はそこまで嫌いというわけではないが、そこまで好きでもない。特にトルコ人の態度だ。トルコ人の中にももちろん良い人がいる。アラジャもバリスもいい人だった。しかし、多くの人があまり好ましくない態度を取る。露天商は基本的にぼってくるし、観光客を騙そうとしてくる。そしてたくさんの人が平気でたばこを街中にぽい捨てし、ゴミを海に投げる。

イスタンブールはとても良い場所だ。しかし、そこに住む人々に対してあまり良い気分になれなかった。これは文化の違いだから仕方のないことなのだろうか。トルコ国内の格差が原因なのだろうか。私は心が狭いのかもしれないが、どちらにしろあまり良い印象を受けなかった。

「旅行会社へ」
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アメリカ人夫婦に別れを告げ、まだ時間があったので、私はブルー・モスク近くのベンチに座って休憩することにした。

すると様々な人が声を掛けてくる。

一人の少年が私に近寄ってきて、ポストカードをくれると言っていきなり渡してきた。そしてこう言うのだ。
「日本のお金を持っていたらください。」
財布の中に円の小銭が入っていたので渡すと、
「違う違う、紙幣だよ。紙幣。私は貧しくて学校の授業料を払えないんだ。だから紙幣を下さい。」
そういって馴れ馴れしく私にどんどん近づいてくる。私は、
「私は紙幣など持っていない。このポストカードはもういらない。返すよ。」
そう言ってその場を立ち去った。

あの馴れ馴れしい態度、私からより高い金額をねだってくる態度にあまり良い気分になれなかった。


「旅行会社へ」
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時間が来たので私は旅行会社に行った。

旅行会社の入口に近づくと、旅行会社のおじさんが、
「早く、早く!」
とせかしてきた。どうやら集合は19時15分前だったようだ。私は19時に集合だと聞いていた。それを告げると、旅行会社のおじさんは、
「おっかしいな。きっと朝の彼女が15分前って言うのを忘れていたんだよ。」
本当に大丈夫だろうか、この旅行会社は。聞くと、まだ大丈夫だというのでしばらく旅行会社で待っていると小さなバスが来た。これで夜行バス乗り場まで行くのだという。

「バスの旅行者達」
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小さなバスの中は最初私一人だったが、しばらくして様々な旅行者がピックアップされていく。

最初に乗ってきたのはフランス人のピエール。話してみると、ピエールは一年間世界中を旅しているのだという。南アフリカから出発し、東南アジア、南アジア、中東を通り、今トルコにいるのだとか。仕事を辞めて旅立ったそうだ。よほど世界に旅立ちたかったのだろう。

彼はとても優しい。私がこれからヨーロッパを旅し、フランスにも行くことを伝えると、もし良ければ私の街にも来てくださいと言って、E-mailアドレスを教えてくれた。私がフランスにいく頃にはすでに帰国しているというのだ。時間があれば是非行ってみたい。

次にバスに乗ってきたのは韓国人のグループだ。1組の夫婦とその友達2人でトルコを20日間旅行しているそうだ。話してみると、夫婦の夫は韓国の大手電機メーカーLG電子の社員だという。有給休暇はあるのだが、長い間いっぺんに取ることが難しく、今回やっと長期休暇が取れてトルコにやってきているとのことだ。大企業における働くことが第一主義は、韓国も日本も変わりないようである。
「私も若いころに君のように旅行しようと計画していたんだよ。」
「今はもう会社員だし、結婚したからそんなことできないけどね。責任があるからさ。」
日本人がいうこと変わらなかった。

「出発」
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小さなバスは、カッパドキア行きの大きなバスが止まる場所へ行った。

午後20時30分、私たちを乗せたバスは、カッパドキアへ出発した。

2009年7月3日金曜日

7月2日:2か国目トルコ(3) イスタンブール 「アラジャとバリスとの別れ」

エジプシャンバザール近く

「起床」
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今日も朝9時頃起床し、ホステルの朝食を食べた。ホテルに滞在する人が市場からスイカを買ってきて、食べないかといわれたのでいただいた。

トルコのスイカは切った状態でみた限りでは日本とあまり変わらない。私
はスイカが大好きだ。なんといってもこのジューシーさが
たまらない。トルコのスイカもまた美味しかった。

「市場へ」
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私は宿を出て、マーケットに向かった。
宿にてインターネットで見ていたとき、イスタンブールには、迷路のように迷ってしまう程大きなマーケットがあるというので行くことにした。

私は特に地図を持たないまま、なんとなくここら辺にマーケットがあるだろうとぶらぶら30分ほどホテルから歩いていると、マーケットらしきものを発見した。

そこのマーケットは通りが一路しかなかったが、トルコのお菓子など様々なものが並んでいた。私が歩いていると、
「ニーハオ」
「アニョハセヨ」
「こんにちわ」
たくさんの露天商が私に話しかけてくる。最初私は、
「No. Thank you.」
と言って丁寧に断っていたが、お店ごとに言われるので段々煩わしくなり、私は露天商を無視するようになっていった。

歩いていると、トルコのお菓子が沢山並ぶところに出た。トルコのお土産屋等でよく販売されているものだったので、前から何か気になっていたものだ。そこで露天商が、
「試食しますか?」
と言ってきたので、試食することにした。最初見た目が日本の羊羹にピーナッツを入れたようなものだったので、羊羹のような味を想像していたが、ピーナッツの風味が強く、羊羹とは全く違った食べ物でおいしかった。

あとで調べてわかったが、ここはエジプシャンバザールという場所。昔モスクだった場所を一部改造してできたバザールのようだ。

マーケットをしばらく歩いていると、大きなアーケード街に出くわした。ここがガイドブックに載っていたマーケットのようだ。

ここも後で調べてわかったが、ここはグランドバザールという場所。世界最大級のアーケード街であり、58の通りと4000店が連なる場所である。

偽物の時計から、金のコイン、高級そうな装飾品までたくさんのものが並んでいた。そこで私は時計のお店に興味を持って見ていたところ、他の露天商と同じように、、
「こんにちは。」
と日本語で話してきた。店の彼によると、時計は全て偽物であり、二種類のランクに分かれているのだという。ひとつはブルガリア製。値段は150LT(10500円)くらいからロレックスが買える。もう一つは中国製。こちらはなんと20TL(1400円)くらいでロレックスが購入できるという。

今まで行ったことのある海外の露天商にはたいてい偽物の商品が並んでいる。偽物の商品が公に出回っていないのは日本くらいだ。しかも、そこに売っている偽物のほとんどは中国製である。おそるべし中国偽物マーケット。中国では一体どれくらいの額の偽物が流通しているのだろうか。

ティッシュを売り歩く子供
「物を売り歩く子供」
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先日も日記で述べたが、トルコには違法にも関わらずたくさんの子供が貧しいがゆえに働いている。

私はマーケットでケバブとヨーグルトドリンクのセットを2TL(140円)で購入し、モスク近くのベンチで食べようとした。私がベンチを探している最中、食べ物をすでに持っているのにも関
わらず平気でレストランの店員が、
「食事はどうですか?」
と言ってしつこく付きまとってくる。私がいいと言っても、
「中ならテーブルがあるよ。食べるスペースあるよ。」
と言ってくる。しつこいので無視してそのまま歩き去った。

座れるベンチを発見し、私はそこに座ってサンドイッチをかぶりついた。トルコのケバブは、牛肉の表面がカリカリしていておいしい。ヨーグルトジュースは全く甘くなかった。明治ブルガリアヨーグルトのプレーン味をそのままジュースにしたような味である。最初変な味だと思ったが、慣れてくると意外といけた。

食べていると一人、小学生低学年のような子供がやってきてティッシュを売ってきた。ひとつ0.50TL(35円)だった。以前バリスが言っていたことを思い出した。
「小さな子供が働くことは違法だ。しかし貧しいから彼らは働いているんだよ。」
こんな小さな子供でも働かなければいけない程、この国には貧しい人がいるのだと言う事を肌で感じた。

水タバコ
「水タバコ」
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私は午後2時、アラジャに再び会った。昨日トルコのビールを飲もうと約束していた。

しばらく歩くと、おしゃれな雰囲気の通りに出た。左側に「バックパッカーズカフェ」、右側にユースホステルのマークが付いたホテルが並ぶ。ここは安宿街なのだろうか。行きつけのカフェのような場所に連れてってくれた。あまりビールを飲むような場所には見えなかった。

そこで私たちはトルコのビール「EFES」を飲んだ。トルコのビールは味が濃く、なかなかおいしかった。ビールは一杯5TL(350円)。

次に出てきたのは「水タバコ」である。水タバコ・・・どこかで聞いたことがあったが、実際に見たのは初めてだった。水タバコは大きな器具の上にいちごなどのフレバーが付けられた煙草を乗せ、水を通していちごフレバーの水蒸気を出し、それ吸うもの。なんだか怪しい形をした器具である。

私も一度トライしてみた。パイプを吸うと泡がボコボコし、たくさんの水蒸気が湧いてくる。口に入った煙はほのかにイチゴの味がする。なんだか不思議な感覚である。

後で調べてみると、最近日本でもこの水タバコが流行しだしているのだとか。水タバコが設置されているカフェがあったり、器具が日本でも売られているのだという。ただ、WHO(世界保健機関)によると、最近まではそこまで有害ではないと思われていた水タバコも、煙草と同じような有害成分があると勧告しているそうだ。何事もほどほどが肝心である。

「福岡からの日本人」
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私達がカフェにいると、そこへ二人の日本人らしき30歳くらいの男女が現れた。声を掛けてみると、やはり日本人で福岡からやってきたそうだ。聞くと、彼らは私と全く逆のルートを通ってイスタンブールに来ていた旅行者だった。ギリシャのアテネから、サントリーニ島、ロドス島を船で渡り、トルコのマルマリスに入った。そしてマルマリスからパムッカレ、カッパドキアを経由してイスタンブールに行ったという。

私は旅行会社に頼んでいたトルコ国内旅行代金が高いか探るため、彼らにトルコ国内でいくらかかったどうか訊ねてみた。すると、私の頼んだ額の6割くらいで行ったというのだ。なんてことだ。やはり旅行代金は高かったようである。

旅行会社の言う安いは私が求めるのは安いではなく、バックパッカ―といしての格安である。別にそこまで快適さを求めていない。どうやら道を誤ったようだ。もう遅いだろうが、後で旅行会社へキャンセルに行こうと決めた。

「再び絨毯屋へ」
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カフェで昨日街を案内してくれたバリスが現れ、私たちは再び絨毯屋へ足を運ぶことになった。

いつもは屋上で話しをしていたが、何故か今回は2階の絨毯ショールームだ。なんだか怪しい。しばらく二人で話すと、再び絨毯屋のイケメン社長が現れた。しばらくイスタンブールや旅行会社の話をした。そして案の定、彼は私に絨毯を勧めてきた。
「昨日、いい絨毯が入ってきたんだよ。ヒロ(私はこう呼ばれている)にぴったりだと思うんだけどどうだい?」
確かに彼らにお世話になった部分はたくさんあるが、私は絨毯が全く欲しくなかった。
「いくらなんですか?」
「日本円で15000円かな。日本で買うと7万する品だよ。」
申し訳ないが、私は即座に断った。高いし、全くいらない。やはり私に絨毯売るためにここまで優しく接していたのかと思ってしまう。彼らが絨毯屋なら勧めてくるのは当然かもしれないが、あまり気持ちが良くなかった。

絨毯屋を出て、アラジャは友達と約束があるとのことで外を出た。そして私はバリスと一緒になった。絨毯を買わなくてもバリスの態度に変化はない。

私はこれまでたくさんアラジャとバリスにお世話になった。彼らの会社の人が二回絨毯を売りつけてきてはしたが、彼らはたくさんの場所に連れて行ってくれたし、イスタンブールの文化や歴史、イスラム文化などたくさんの事を教えてくれた。絨毯を買わなくても度に変化がないところからすると、売る気持ちはあったがそのほとんどが善意だったのではないかと私は思う。こう思う私はお人好しだろうか。

彼らと共に過ごすことができて、一人だけでは味わえないイスタンブールを味わうことができた。そのことに感謝したい。

「旅行会社へ」
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旅行会社に行くと、私を受付した女性がお客と話していた。
「今取り込み中なので、一時間後に来てください。」

「アラジャとバリスとの別れ」
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バリスと共に再び旅行会社を出ると、私達は再びアラジャに出会った。バリスはこれらから友人と会う約束があるので行かなければならないという。彼らと共にするイスタンブールも良いが、そろそろ一人でイスタンブールを堪能したくなってきたので私もその場を去ることにした。

「再び旅行会社へ」
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約一時間経った後、私の受付をした女性は姿を消し、代わりにひげを蓄えた中年男性が席に座っていた。
「以前申し込んだ旅行をキャンセルしたい。高いからだ。」
「もうすべて手配を済ましているので、キャンセルにはだいたい60%手数料が必要だ。」
出発前日なので当然だろう。もう遅い。

明日、この旅行は決行される。

もう旅行会社で何かを頼むのは絶対にやめよう。現地に行き、全部自分で手配しよう。

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